猿沢池

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湖面に映っているのは興福寺(向かって左)

 

猿沢池をめぐっては、その長い歴史に培われた「伝説」や「逸話」

非常に多く、帝の寵愛を受けられなくなった采女が悲しみのあまり

池に身を投げたという「采女伝説」はとくに有名なものとなっています。

采女伝説に関わる行事としては、毎年9月~10月の中秋の名月の日に

なると鮮やかな管絃舟が猿沢池を回ったり行列が練り歩いたりする

ことで有名な「采女祭」が実施され、当日は多くの観光客でにぎわう

ほか、現在も池の西には「采女神社」が池に背を向ける形で鎮座し、

また池の東側には釆女が入水する際にその衣を掛けたという「衣掛柳」

の石碑がおかれています。

他の伝説としては「澄まず 濁らず 出ず入らず 蛙はわかず 藻は

生えず 魚が七分に水三分」と言われる「猿沢池の七不思議」も有名

であり、この伝説に反し猿沢池が変色した際などには奈良町の住民が

大騒ぎになったとも言われています。

 

 

 

 

 

 

采女祭りの日程は中秋の名月に行われるので、2024年は9月17日(火)

中秋の名月(ちゅうしゅうのめいげつ)とは太陰太陽暦、旧暦で

8月15日に見える月のことです。今年は2024年9月17日(火曜日)です。

 

 

 

 

中秋の名月は、唐の時代の中国から伝わった風習です。

「月を眺めて祈りを捧げる」という風習は、古来より月を

祀る習慣があった日本人にも馴染みやすかったのでしょう。

平安時代の頃には、中秋の名月が貴族たちの行事として

定着していきました。平安貴族たちは、月を愛でながら

和歌を詠んだほか、舟遊びをしたり酒を酌み交わしたり

したといいます。

古代の中国では、中秋の名月の日には「月から天人が降りて

くる」と信じられていました。一方、日本の『竹取物語』

では、かぐや姫が月へ帰る日が中秋の名月です。

 

 

 

 

(Wiki)

興福寺が行う「放生会」の放生池として、天平21年(749年

に造られた人工池である。放生会とは、万物の生命をいつく

しみ、捕らえられた生き物を野に放つ宗教儀式である。

猿沢池の七不思議

猿沢池の水は、決して澄むことなくまたひどく濁ることもない。

水が流入する川はなくまた流出する川もないのに、常に一定の

水量を保っている。はたくさんいるが、なぜかはいない。

なぜかも生えない。毎年多くのが放たれているので増える

一方であるにもかかわらず、魚であふれる様子がない。水より

魚の方が多くてもおかしくないような池。

実際には上流下流があり暗渠となっている。近年池にアオコ

常に発生していて、水は緑色であり、関係者を悩ませている[3]

猿沢池の名前の由来は、インドヴァイシャーリー国の獼猴池

(びこういけ)または猿池から来たものと言われている[5]

獼猴あるいは猴の字義としては、大きなサル[6](または尾の

短い種類のサル)を指している。

 

 


 

前日に采女神社で「宵宮祭」が行われ、当日は17時頃から

花扇奉納行列が始まります。

19時からは管絃船の儀が始まります。

雅楽が演奏される中で、猿沢池の上を花扇、「花扇使」や

「ミスうねめ・ミス奈良」を乗せた2隻の「管絃船(龍頭

・鷁首)」が巡り、最終的には「花扇」本体が池に浮かべ

られ、お祭りはクライマックスとなります。

 

采女神社は春日大社の末社のひとつですが、この神社の不思議は

鳥居は東向きに、社殿は鳥居に背を向けて西向き(猿沢池のほう)

に建てられているのです。

 

 

 
JR奈良駅から猿沢池まで向かう行列です。ルートは以下の通り
17:00〜:JR奈良駅→三条通り→東向通り→大宮通り
→小西さくら通り→東城戸町→餅飯殿通り→三条通り→采女神社

花扇奉納行列が無事に采女神社に到着した後、18時より春日大社

神官による奉納神事が行われ、花扇が奉納されます。。

境内が非常に狭いため関係者以外立ち入りが出来ません。

「管弦船の儀」が行われる前に「采女ものがたり(うた語り)」が

行われます。采女祭の歴史についてわかりやすく語ってくださり、

より采女祭を楽しめ、勉強になる演目です。管弦船で猿沢池を

1周しながらうた語りは行われます。

采女祭のメインイベントとも言えるのがこの「管弦の儀」です。

19時より南都楽所の奏する雅楽が流れる中、花扇をはじめ、花扇使

・ミス采女・ミス奈良を乗せた2隻の管弦船が猿沢池を1周します。

1周した後、最後に花扇を池の中に投じて終わりを迎えます。

 

 

 
JR奈良駅
采女神社
 
 
(Wiki)
采女神社

『元要記』によると、当社は権中納言藤原朝臣良世卿の建立で、

興南院権僧正快祐勧請と記されている[1]

1902年明治35年)11月に土塀を撤去し建築したため、現在

は東と北に瑞垣を巡らせている[1]

 

采女祭 管弦船の儀1
花扇使や楽人と共に花扇を乗せた龍頭の管弦船。かがり火を掲げて
猿沢池のゆっくり巡ります。初秋の夜空に満月の「中秋の名月」が
(左上隅)浮かんでいます=撮影 2023/9/29 奈良市登大路町
 
 
旧暦の七月七日は初秋。毎年七月七日には、近衛家から宮中に
種の花を束ねた『七夕花扇』が献上されました。近衛家陽明
文庫に残る記録によると、花扇は高さ寸、幅寸の
大きさで、縞芒(緑)、桔梗(紫)、仙翁(紅)、菊(白菊)、
蓮(桃)、小車(黄)、女郎花(黄)の七種の花を束ね懐紙で
包んで水引で飾るもとあります。扇の形であるため花扇と
よばれます。内裏では小御所の前の池に浮かべて日の
宵に星の手向けにしたといいます。
 
織(18)姫(10)&彦(9)星(9)=28&18=46
7/7・・・7&7=14
46&14=60
 
 

室生龍穴神社に祀られている龍神様は、もともと奈良の興福寺

の近くの猿沢池に棲んでいました。
ところが、奈良時代に帝の寵愛が薄れたことを悲嘆した采女

(うねめ)が池に身投げをするという有名な事件があり、喧騒

や穢れを嫌った龍は春日山の山中に潜み、さらに室生にやって

きたと伝わっています。

室生龍穴神社の拝殿は、室生寺の般若堂を移築したもので、

扁額には、雨乞いの対象である龍王のうちの一尊「善如龍王社」

の文字があります。

拝殿の奥にある、朱塗りの本殿(県指定文化財)は、江戸時代の

1672年(寛文12年)に春日大社若宮の社殿を移したものです。

 

 

 

 

舳先(へさき。船首)に龍の頭の形を付けたのが⑥「龍頭の舟」、
鷁という想像上の鳥の形を付けたのが⑦「鷁首の舟」です。龍は
よく水を渡り、鷁はよく飛んで風に耐えるとされ、二隻が一対に
なって使用されますので、龍頭鷁首と呼んでいます。貴族たちの
舟遊びで使用されたり、楽人を乗せて船楽用にされたりしました。
この絵で、龍頭の舟に⑧太鼓が乗せられているのは、船楽用で
あることを示しています。

 

 

 

 

神泉苑は、延暦13年(794)、桓武天皇により禁苑として造営

されました。 平安京(大内裏)の南東隣りに位置し、 南北

4町東西2町の規模を有する苑池でした。
発掘調査によって、 大池の北岸、泉から池に流れ込む小川

(遣水)など庭園の北部を検出しています。

平安時代初頭頃には、苑池での管弦の宴などに用いられた

竜頭鷁首の舟などが着き、 貴族たちが南庭へと下り立った

ものと想像されます。

桓武天皇による延暦19年(800)の行幸以来、歴代天皇は

神泉苑で宴遊されました。

◎弘法大師の祈雨

 

 
 
 

善女龍王とは、龍神の一種であり、天候や農耕など水に関する

信仰に絶大な御利益をもたらすものとされている。
また、弘法大師が天長元年(824年)に京都の神泉苑で雨乞い

祈願をした時に、インドの無熱池(むねっち)という池から

善女龍王を勧請したことでも知られる。

 
 
 
法華経 提婆達多品の中の逸話で、釈迦の法華経の説法を聞いて
いた時、沙伽羅竜王の第王女の「善女龍王」がその教えを
聞いて成仏をしてしまったという話です。
牛頭天王の后としてもらう女性は、沙伽羅竜王の第三王女の
頗梨采女(はりさいじょ)と言われます。
 
八&三=11