神社に行くと、手水舎には龍がいるし、龍神伝説というのも

よく聞くし、寺の天井には龍が描かれていて、どうして

龍なのか疑問でした。

また、台湾へ旅行に行ったことがあるけど、寺の屋根の上に

まで龍がたくさんのっかっていて、不思議なのです、、、

また、日本地形は龍の形をしているとか!?

 

 

 

 

 

 

辰年である本年一月より、春日大社の龍神信仰にまつわる

五つの末社・神蹟を参拝し、天に昇る龍のごとき運気上昇

御加護を春日龍神様から授かる新たな神めぐり「春日五大

龍神めぐり」が始まりました。(パンフより)

 

 

 

 

春日龍神は人々の命を護る絶大な信仰として、多くの方々へ

遍く御加護を授けて参りました。室町時代の初期に能を大成

した世阿弥が、能「春日龍神」を創作するほど、人々へ篤い

信仰が広まっていました。

龍は天へ昇り、黒雲を造り、雷鳴を轟かせ、雨を降らせて、

万物の命を潤します。平城京、南都の水源は神山御蓋山

(三笠山)、神山春日山であり、水源地に鎮座される神様の

化身として春日龍神様がおられます。京都南部から奈良一帯

にて、雨不足の時に各地で雨乞の祈りがなされるも願いが

届かない時には、春日大社へ詣り八龍神社にて祈りがあげられ、

さらに神山春日山の香山龍王社にて祈りをあげると、必ず雨が

降りました。

 

第1番参拝所 | 金龍(きんりゅう)神社

南北朝時代、後醍醐天皇が笠置潜幸の途中に一面の御鏡を奉安

され天下泰平を祈願されたのが当社の起こり。かつて天皇の

しるしは龍であり、天皇即位の際に用いられた装束には龍の

模様が刺繍されていた。

第2番参拝所 | 龍王珠石(りゅうおうじゅせき)

第3番参拝所 | 鳴雷(なるかみ)神社 〈香山龍王社(こうぜんりゅうおうしゃ)〉

第4番参拝所 | 八雷(はちらい)神社 〈八龍(はちりゅう)神社〉

第5番参拝所 | 龍王社(りゅうおうしゃ)

 

 

 

 

龍神様は雨を降らす神様で、天皇=龍神というのは

初めて知りましたよ驚き

 

 

 

春季特別展 ―源氏物語の時代― 平安王朝の栄華

開催期間

前期:202446日(土)〜202469日(日)
後期:2024611日(火)〜20248月4日(日)

開館時間

10:00~17:00(16:30受付終了)

休館日

令和66月10日(月)

 

重要文化財 古神宝銅鏡類 素文鏡 平安時代

 

 

2&2&4&4&6&2&2&4&6&9=18&23=42・・・4&2=6

2&2&4&6&1&1&2&2&4&8&4=16&20=38・・・3&8=11

 

 

素文鏡(関白藤原道長奉納と伝わる)

平安時代 寛弘8年(1011){パンフから}

藤原道長は有名人ですから、歴史に疎い私でも知っています。

 

 

「この世をばわが世とぞ思ふ望月(もちづき)の

欠けたることもなしと思へば」

「この世は自分のためにあるようなものだ。満月の欠けたことがないように」
であり、廟堂(びょうどう、政治を司る所。朝廷)、外戚(がいせき、母方

の親類。天皇の后に自分の娘を入内させる)のすべてを固めるなど、

「望月の欠けたることも無しと思へば=もう自分の思うようにならないこと

は一つもない」と、道長は彼の悲願であった藤原摂関家の揺るぎない地盤を

完成を確信したため、栄華の象徴としてこの歌を詠んだのでしょう。

この歌は藤原実資の「小右記」に記されていますが、この実資という人物は

道長も一目置いており、実資自身も道長に楯つかないまでも、おかしいと

思ったら筋を通した人物ですので、道長にこの歌に対して返歌を詠んでほしい

と頼まれても、「優美な歌であり、とても返歌など必要ありません」と答えて

いますが、内心では「望月=満月もいずれは欠けるものだ(栄華はいつまでも

続かないだろう)」と思ったかもしれません

(その後、望月が欠けていくかのように、道長自身は病魔に侵され、三男

・顕信や入内した子女も次々に死去するなどの不幸に襲われます)

https://detail.chiebukuro.yahoo.co.jp/qa/question_detail/q1149705851

👆

解釈はいろいろあるようですが~~😀

 

 

 

 

 

藤原公任

「紫の雲とぞ見ゆる藤の花 

いかなる宿のしるしなるらむ」

(この藤の花が紫の雲かとも見えるほど美しく咲き誇っている

のは、この家のどのような吉兆なのであろうか)

 

 
 
 

 

もう現代語訳を見てお分かりになる通り、スーパーヨイショ

和歌ですね!!もはや気持ちの良いほどストレートな道長家

age和歌。

 公任に割り当てられていた屏風は、藤の花が咲いている家

を描いたものだったので、屏風の状況にもぴったり。藤の花=

藤原家の意味ですからね。道長もこういう和歌を詠ませたくて、

意図的にそういう絵の屏風をチョイスしたのでしょう。

 

 

 
 
 
そもそも春日行幸の前提となる春日詣(春日大社〔奈良市〕
に詣でること)とは、藤原氏が行っていたものである。
春日大社の由来は、和銅3年(710)に藤原不比等が
藤原氏の氏神の鹿島神を御蓋山に遷し、春日神と称して
国土安穏、国民繁栄を祈念したことからはじまった。

 円融法皇も「夢想よろしからず」と述べ、反応が鈍かった。

「夢想よろしからず」とは、夢の中に神仏があらわれ、

「良くない」と回答したことになろう。しかし、一条天皇

の母の詮子(兼家の娘)の強い意向、そして兼家の強い

希望も相まって、ついに春日行幸が実現したのである。

 

 こうして同年2223日の両日にわたって、一条

天皇による春日行幸が実現したのである。とはいえ、兼家

は強引にことを進めたのではなく、円融法皇や朝廷の公卿

層を説得してのことだった。いかに権力者とはいえ、

あまりやりすぎるのは良くなかったようである。

 
3&2&2&2&3=7&5=12(6 6)
 

 

 

 

 

 

藤原道長 摂関期の政治と文化 人をとおして時代をよむ」

 

 

春日行幸

春日社は大和国添上郡の藤原氏の氏神。一条天皇の行幸が

はじめての例で、兼家と詮子の強い意向で永祚元(九八九)

年に行われた。三条天皇の幸行は実現せず、後一条天皇は

治安元(一〇二一)年に行われた。

 

藤原道長は藤原兼家の五男として生まれて、兼家が摂政と

なった翌年、二二裁で結婚。

長男道隆、四男道兼がいる。道隆は摂政、正暦四(九九三)

年ふたたび関白になり、道隆の次男、伊周は内大臣となり、

先任の権大納言道長を抜くことになり、のちの対立の始まり

となったのである。

長徳元(九九五)年に疫病が流行し、空前の猛威をふるった。

道隆は没した。四三歳、アルコール中毒による糖尿病だった

らしい。

右大臣道兼は待望の関白になるが、疫病に倒れて死去。

「七日関白」と言われた。

かくして、伊周VS道長。

天平九(七三七)年以来の天然痘の流行。 姉の詮子

(国母で女院)が強力に道長を推した。五月十一日に道長に

内覧、さらに右大臣に進み、伊周を超えて筆頭大臣の地位に

就いた。

詮子は長保3(一〇〇一)年閏十二月二十二日に没する。

四十歳。伊周の没落後、道長が左大臣に昇格。

のち、寛永八(一〇一一)年、一条天皇は病に倒れ崩御。

三二歳だった。のち、三条天皇が即位。眼病と退位で

後一条天皇即位に。

寛仁三(一〇一九)年、道長は胸の病と眼病が悪化。出家。

萬寿四(一〇二七)年、十二月四日、法成寺で九体の阿弥陀仏

の極楽往生の糸を手にとったまま、息をひきとった。六二歳。

藤原道長は、摂関政治の頂点の人物と言われているが、幼帝の

後一条即位の時に一年ほど摂政になっただけで、ほとんど摂政

・関白にならなかった。内覧になり、左大臣(一上)として

政治を行ったのである。法成寺の造営が長男頼道の建てた平等

院において完成し、院政期に大きな影響をあたえた。道長の

仏教信仰についていえば、多くのあらたな試みがなされ、独自

性がある。(山川出版社)

 

 

 

 

 

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新5,000円札 津田梅子 フジ(藤)
 
 

 

 

 

 日本固有のフジの一種で、大阪市福島区発祥とされるノダ

フジが採用された。

 「古事記や万葉集にも登場するなど古くから多くの人に

親しまれている」。新五千円札にノダフジが採用された理由

を、財務省の担当者はこう説明する。近代的な女子高等教育

に取り組んだ津田梅子(1864~1929年)を肖像画と

する新五千円札は紫色が基調。紫の花が美しいノダフジとも、

色合いがなじむと判断された。

 ノダフジはつるが右巻きで、50~70センチ程度の長い

花房を付ける。春日神社(福島区)周辺の旧野田村に古く

から自生していたとされ、和歌や錦絵にも登場。足利義詮

(よしあきら)や豊臣秀吉が見物に訪れたとの記録や伝承が

残る。

「野田の藤」は江戸期、全国的な知名度を誇り、「吉野の桜」

「高雄の紅葉」とともに三大名所と称された。

 

 

 

 

 

 

 

春日大社で「砂ずりの藤」を見たのですが、真っ黒い大きな蜂

がたくさん飛んでいるのが、ちょっとえーでしたョ💦

熊蜂なんだそうです。

 

 

 

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右の黒いのが熊蜂

 

 

奈良市のマンホール

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ナラノヤエザクラとシカですねニコニコ