京阪本線・伏見稲荷駅下車 ![]()
裏参道から
全国に約30,000社あると言われる稲荷神社の総本山。
楼門の両脇には狐が鎮座し口に玉と鍵をくわえている。
「玉鍵信仰」
稲荷信仰の原点が、稲荷山であります。
当社の御祭神である稲荷大神様がこのお山に御鎮座されたのは、
奈良時代の和銅4年(711)2月初午の日のこと。その日から
数えて、平成23年(2011)に御鎮座1300年を迎えました。
4&2&2&3&1&3=11&4=15・・・1&5=6
御祭神:宇迦之御魂(うかのみたま)
(Wiki)
秦 伊侶具(はた の いろぐ)は、『山城国風土記』逸文に現れる
(いろこ)とも記される。
「伊侶具秦公が、稲梁を積むほどの富裕な生活をしていた。そこで
餅を用いて的としていたところ、餅が白鳥に姿を変え、飛翔して
山の峰に行ってしまい、そこで子を産んだ。最後にはここが神社
となった。その子孫が先の過ちを悔いて神社の木を抜いて家に
殖やし、祭っていた。今その木を植えて育てば福が来、枯れれば
福は来まいという」
『今昔物語集』など古典にもしばしば登場する[4]。平安時代、
東寺(=教王護国寺)の造営にあたって鎮守神となるや、真言密教
と結び付いてその信仰を拡大[5]、次第に神位を高めて『延喜式』
(『年中行事秘抄』)、その後源頼朝や足利義教らが社殿の造営、
修造に関わったが、応仁の乱にてすべて焼亡。乱後、社僧による
勧進の下で再建が始まり、明応8年(1499年)に至って遷宮を迎えた[6]。
近世まではこれら勧進僧たちが稲荷信仰の普及や稲荷講の結成に
大きく関与した[7]という。
なったことを伝えている。
稲荷祭は下鴨の葵祭、八坂の祇園祭とならぶ人気を博し、貴顕から
の奉幣も盛んに行われた[17]。延久4年(1072年)には、初の行幸
として、後三条天皇が訪れ、この後鎌倉時代まで、祇園社とあわせ
ての両社行幸が恒例となった[17]。
伊呂巨(具)について、「稲荷社神主家大西(秦)氏系図」によると、
「秦公、賀茂建角身命二十四世賀茂県主、久治良ノ末子和銅4年2月
壬午、稲荷明神鎮座ノ時禰宜トナル、天平神護元年8月8日卒」と
記され、先にも述べた通り賀茂県主の子孫と称されています。
山背国の稲荷山に大神を祀られたところ、五穀大いに稔り国は富み
栄えた、この祭祀された日こそが和銅4年の2月初午であった、
との伝承があります。
二十四&五=29・・・2&9=11
4&2&8&8=6&16=22
29&22&4&2=51&6=57・・・5&7=12(6 6)
4/19&4/24
☝
4&1&9&4&2&4=14&10=24・・・2&4=6
葵祭 五月十五日
祇園祭 七月十七日
稲荷祭り 五月 三日
5&15&7&17&5&3=20&24&8=52・・(4&4=8 8)(11×8)
外拝殿(げはいでん)
建立天保11年
12ヶの鉄灯篭「黄道12宮」
内拝殿・本殿(右側)
内拝殿はメッシュが掛かっていて、内部が見えにくくなっています。
本殿では、七五三の式最中でした~~
権現
願かけ鳥居
玉山稲荷社
神馬舎
奥宮(左側)御祭神:稲荷大神
千本鳥居
鳥居は神様の世界と人間の世界の結界の意味があり、
朱色は魔除けの色
3381基![]()
奥社奉拝所にある案内図
五&六=11
後白河院《建久3年(1192)崩御、御年66歳》の撰になる歌集
『梁塵秘抄』に、
いなりおはみつのやしろとききしかと
いまはいつつのやしろなりけり
いなり山社の数を人とはば
つれなきひとをみつとこたえむ
(拾遺和歌集)
いなり山しるしの杉の年ふりて
みつのみやしろ神さびにけり
(千載和歌集)
このように来歴不詳の摂社二座が、12世紀末以降「稲荷の神」
と称える内に含まれるようになった由縁は、各御祭神の御神徳
より来る関連、或いは“田中の神”および“四之大神”の祭祀集団
と“稲荷神”の祭祀集団との関連、その地域的近接、勢力の優劣
等々が互いに絡みあっているのかも知れません。
「平安京(平安時代」」では「仏教」の影響が強かったのです
が、「真言密教」は「稲荷神」を「神仏習合」させたので、
「真言宗」が全国に布教されるとともに、「稲荷信仰」が
全国に広まることとなり、全国に多くの「稲荷」が存在する
こととなりました。
「江戸時代」に入ると、稲荷が「商売の神」と公認され
はじめました(万能の神へ変化)。
お守りもこんなにたくさんあったのですね~
玉鍵などの意味も事前に知らないと、購入するのに迷って
しまいますよね~~![]()













































