日本人と天皇

2019年7月3日

201911月に行われる予定の「大嘗祭(だいじょうさい)」。

古来より伝わる皇室の伝統で、皇位継承にともなう一世に一度

の重要な儀式だ。しかし、その詳しい内容は長くベールに包ま

れてきた。今回、関係者の証言や資料から「大嘗祭」を再現。

受け継がれてきた皇室の伝統に迫る。さらに、男系男子に限ら

れている皇位の継承をどう考えていけばよいか。戦後、現憲法

の下で2度にわたって行われた政府の議論を、発掘資料やスクープ

証言を交えて詳細に検証。新しい時代、主権者である私たちは

この問題とどう向き合えばいいのか? そのヒントを探っていく。

伝統を継承する天皇の儀式

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「鳥見山の郊祀」伊勢神宮徴古館所蔵

 

知らざれる大嘗祭の儀式を再現

「剣璽等承継の儀」に続いて、即位した天皇が行う極めて重要な

儀式が、奈良時代から始まったとされる「大嘗祭」だ。皇居に

特別に作られる2つの宮殿の中で、天皇が全国の農産物を神に供え、

国の安寧と五穀豊穣を祈る儀式である。

長年、大嘗祭について研究してきた國學院大學客員教授の岡田荘司

さんは、大嘗祭は新天皇が日本人を代表して神に祈る大切な儀式だ

と言う。

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國學院大學客員教授 岡田荘司さん

 

「日本の国家の一番大事な農業生産、山あるいは川、自然の恵み、

あるいは災い、そういうものを鎮めていく。国民の苦しみとか、

国民の願いをそのまま凝縮した形で古代から始まっている。生活

と密着した形でのお祭りである一番の最高の儀式が、天皇の一代

一度の大嘗祭になるかと思います。」(岡田客員教授)

宮殿の中で何が行われているのか。これまで公にされたことはない。

そこで、複数の研究者や、平成の大嘗祭に関わった人たちの証言を

元に、儀式の再現を試みた。

再現したのは、悠紀殿(ゆきでん)と呼ばれる宮殿の内部。天皇が

この中に入るのは、夜7時過ぎだ。菜種油で灯したわずかな明かり

の中、内陣と呼ばれる8メートル四方の部屋で儀式は行われる。

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このとき、すでに内陣には神が降りてきていると考えられている。

中央には、畳表を何枚も重ねた寝床。神が休むためのものとも言わ

れている。天皇が座るのは、御座(ぎょざ)と呼ばれる90センチ

四方の畳の上だ。その先にあるのは、神座(しんざ)。天照大神が

まつられる伊勢神宮がある南西の方角に置かれている。天皇は、

天照大神とすべての神々に対して向き合うのだ。

この部屋の中で天皇を手伝うのは、2人の女官のみ。天皇は各地から

集められた食材を受け取り、柏の葉でできた32の皿に1時間半かけて

盛り付け神に供える。

食材は収穫したばかりの米と粟、タイやアジ、アワビなどの海産物、

さらに、栗や干し柿などの果物で、「神饌(しんせん)」と呼ばれている。

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天皇がこの場で見せるのは、ひたすら神々に奉仕する姿だ。そして、

天皇は伊勢神宮の方角に向かって拝礼し、「御告文(おつげぶみ)」

を読む。内容は、天照大神とすべての神々に感謝し、日本人の安寧を

願うというものである。儀式を締めくくるのが、神との食事である

「直会(なおらい)」だ。

天皇は、米、粟、そして酒を、神と一緒に口にするとされている。

こうした儀式をもう1つの宮殿でも行い、天皇は一晩中、神と向き

合う時間を過ごすのだ。

時代に応じて変化してきた即位の“伝統”

皇位継承の儀式から見えてきた、神と天皇との深い関わり。

時代をさかのぼると、実は仏教とも深いつながりがあったことが

分かってきた。京都にある真言宗・泉涌寺は、鎌倉時代から江戸時代

までの39人の天皇や皇族が埋葬され、「御寺」と呼ばれている。

幕末の孝明天皇が亡くなった日には、毎年、僧侶も加わって、皇族に

よる神道のお祀りが行われてきた。

この寺には、仏教の影響を受けた天皇の秘密の儀式が伝えられてきた。

泉涌寺で葬られた天皇にまつわる文書には、鎌倉時代から江戸時代まで、

皇位継承の際に行われた「即位灌頂(そくいかんじょう)」という儀式

が記されている。

泉涌寺の石野浩司さんが「灌頂」について説明する。

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「即位灌頂」が記された文書

「“灌頂”というのは、もともと仏教の儀礼でありまして、頭に水を注ぐ

ので灌頂と言います。実際に天皇陛下の頭の上に水を注ぐわけではなくて、

手に印を結んで口で呪文を唱えて、心の中に『我こそは天皇なんだ』と

いう観念をする。」(石野さん)

天皇は「即位灌頂」を行うために、ある言葉を唱えていた。それは、

仏教発祥の地・インドのサンスクリットの文字で書かれている。

「大日如来イコール観世音菩薩、観世音菩薩イコール日天子、日天子

イコール日神、日神イコール伊勢神宮という観念ですね。要するに、

天皇が大日如来に変身しまして、その大日如来がだんだん変身して

いって、伊勢神宮の天照大神と一体になるという観念をしながら、

ボロン』と言う。」(石野さん)

天皇と神と仏をひとつにする呪文「ボロン」。当時、大きな影響力を

持っていた仏教の力も借りて、即位していたのだ。即位灌頂は、92代の

伏見天皇から幕末の孝明天皇まで、500年以上にわたって行われていた。

「日本の伝統からいきますと、神と仏と両方いた時代のほうが圧倒的に

長いんですね。時代によって、天皇像というのは変わっていって、どれが

正解という姿はないんですね。その時代時代に国民が求める天皇像という

ものがあって、天皇陛下の側もそれに合わせてお姿を示されるということ

が、2000年続いてきた。」(石野さん)

時代に応じて変わる日本人と天皇の関係

即位の姿が大きく変わったのが、天皇を中心とした国づくりが始まった

明治だった。国の統治者として君臨することになった、明治天皇

18671912)。その即位の儀式を描いた「明治元年御即位式図絵図」

には、庶民の見物は許されず、その姿は描かれていない。

一方で、それまでにないものが描かれていた。庭の中央に見える、

直径およそ1.7メートルの地球儀だ。

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明治元年御即位式図絵図(国立公文書館所蔵)
 

記録によれば、当時の新政府が特別に用意させたもので、天皇が日本

地図の上に左右交互に足を置き、日本に君臨することを示すための

ものだった。海外の列強を意識し、近代国家への道を踏み出そうと

いう当時の政府の思惑が、天皇の即位の儀式にも大きな影響を与えて

いたのである。

「男系男子」がもたらす皇位継承の危機

皇族から出た皇室典範への異論

男系男子の規定を続けるのかどうか。終戦直後、大きく問われたこと

があった。国民主権や基本的人権の尊重を理念とする日本国憲法が制定

され、天皇は国の統治者から「象徴」となる。日本を占領したGHQの

意向で、皇室は大幅に縮小。600年前の天皇の血筋をくむ11の宮家、

51人の皇族が民間人となった。

昭和21113日、新憲法の公布の日にあわせて書かれた意見書

「新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)」。これを書いたのは、昭和天皇

の末の弟、三笠宮崇仁親王。政府が進める皇室典範の草案に見直しを求め

ていた。

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新憲法と皇室典範改正法案要綱(案)

政府は、「女帝の問題については将来の研究に委ねたい」とし、女性の

天皇を認めなかった。そして、「男系男子」の規定を残したままの皇室

典範が成立する。GHQの占領下で、皇室を守ることが何より重要だった

政府。三笠宮の考えを検討する余裕はなかったのである。

 

新時代にも必要な皇位継承の議論

この記事は、2019年4月30日に放送した 「NHKスペシャル 日本人と天皇」

を基に制作しています。

https://www.nhk.or.jp/special/plus/articles/20190522/index.html

 

2+1+9+1+1+2=16(8 8)
2+7+8=17
9+2+3+2+1=17
1+3+9=13
9+2+1+7+5+2=26
6+1+1+5+1=14
16+17+17+13+26+14=103
昭和21年11月3日
2+1+1+1+3=8
103+8=111
(1+8+6+7+1+9+1+2=22+13=35)
111+35=146・・・1+4+6=11

 

 

 

 

 

 

(Wikipediaより)

真言宗泉涌寺派(しんごんしゅうせんにゅうじ)

日本における真言系仏教宗派のひとつで、古義真言宗に属する。総本山

泉涌寺。真言(マントラ)の起源は仏教成立以前に遡る。アーリヤ人

インドに侵入する以前のインド・イラン共通時代に、彼らは火神

アグニ)にマントラを捧げて敵を退け病を癒し害毒を除くことを

祈っていた。インド侵入後に成立したとされる『リグ・ヴェーダ』の

中には火神に捧げるマントラが多く記述されている。

真言宗泉涌寺派の歴史は、泉涌寺を天台・真言)・

四宗兼学の道場として、俊芿が中興したことにより始まる。それ以来、

独自の宗風を保ち、また、泉涌寺は皇室御陵所・香華寺とされて、

皇室との関係が深かった。

明治時代に入ると、皇室からの保護が無くなり、財政的にも逼迫

(ひっぱく)する状態となり衰微した。また、政府の宗教政策から、

1872年(明治5年)に四宗兼学が廃され、真言宗に属することとなった。

戦後、大真言宗から独立し、1952年(昭和27年)9月30日に真言宗

泉涌寺派として宗教法人認証。10月17日登記完了。

 

 

真言(しんごん)とは、サンスクリット語マントラ(मन्त्र Mantra

の訳語で、「(仏の)真実の言葉、秘密の言葉」という意。

大日経』などの密教経典に由来し、浄土真宗を除く多くの大乗仏教

の宗派で用いられる呪術的な語句である。

仏の真実の教えは、この宇宙の真理(法)や隠された秘密を明らかに

するもので、本来は人間の言葉で表すことはできないが、方便として

世俗の文字・言語を借りてそれに教えを盛り込み、これを観想しこれ

に心を統一することで、その教えに触れ得るようにしたものが、密教

における真言であるとされる。

 空海は、真言について「真言は、不思議なものである。本尊を観想

しながら唱えれば無知の闇が除かれる。わずか一字の中に千理を含む。

この身のままで真理を悟ることができる。」と記している。

「真言」は、サンスクリット語の「mantra」を漢訳したものである。

 最初はバラモン教の聖典である『ヴェーダ』に、神々に奉る讃歌と

して登場し、反復して数多く唱えることで絶大な威力を発揮すると

考えられていた。後に、バラモン教に限らず不可思議力を有する呪文

をことごとく「mantra」というようになった。 

バラモン教や非アーリヤ系の土着の信仰の「mantra」が仏教に採り

入られて、治歯・治毒・悪鬼羅刹からの護身・延命など現世利益のため

の「mantra」が用いられるようになった。 この「mantra」を龍樹

玄奘は、「呪文」または「神秘的な呪文」の意味で「」・「神呪」等

と訳し、善無畏不空は、「仏の真実の言葉」の意味で「真言」、

「仏の秘密の言葉」の意味で「密言」等と訳した。 また、「maṇḍala

の訳とする説もある。

サンスクリット語の「vidyā」、パーリ語の「vijjā」を訳したもので、

本来は「知識」や「学術」を指す語である。古代インドにおいて学問

・科学と呪法は一体であり、病を癒すための医術や毒蛇を避ける魔術や

など凡人の知りえない神秘的な知識・呪術の意味で用いられていた。

ボロン

サンスクリット語の「bhrūṃ」で、漢訳では「歩嚕唵」等と書かれる。

bh(発菩提心)」+「(墔滅諸罪障)」+「ūṃ(一切如虚空)」の

合成語で、菩提心を発し罪障を滅し心楽しく虚空の如く清浄なことを

意味するとされる。

真言は、バラモン教ヒンドゥー教のマントラに由来するため「反復」

が重視されており、数限りなく唱えられたときに絶大な威力を発揮する

と説かれている。

遍数には三遍・七遍・百八遍・千遍、十万遍(洛叉)などがあり、

例えば、不動明王の真言を30万回(三洛叉)唱えると不動明王の姿を

見ることができる。

准胝観音の陀羅尼を90万回唱えると一切諸々の罪業が余すところなく

消滅するなど、数多く真言を唱えることで効果を発揮すると説かれている。

空海も実践したと伝えられる「虚空蔵菩薩求聞持法」は、虚空蔵菩薩

真言を100日間ないし50日間で100万遍唱えるもので、修行が成就すれば

抜群の記憶力と限りない智慧を獲得できるとされる。

 

伊勢神宮

「お伊勢さん」「大神宮さん」と親しく呼ばれる伊勢神宮は、

正式には「神宮」といいます。
神宮には、皇室の御祖先の神と仰ぎ、私たち国民の大御祖神おおみおやがみ

として崇敬を集める天照大御神あまてらすおおみかみをお祀りする内宮ないくう皇大神宮こうたいじんぐう

と、衣食住を始め産業の守り神である豊受大御神とようけのおおみかみをお祀りする

外宮げくう豊受大神宮とようけだいじんぐう)を始め、14所の別宮べつぐう、43所の摂社せっしゃ、24所

末社まっしゃ、42所の所管社しょかんしゃがあります。

これら125の宮社全てをふくめて神宮といいます。

https://www.isejingu.or.jp/about/index.html

 

1+2+5=8

所在地

内宮(皇大神宮)三重県伊勢市宇治館町1  

外宮(豊受大神宮)三重県伊勢市豊川町279(〒516-0042 )

 

 

皇居東御苑の略図

皇居東御苑、〒100-8111 東京都千代田区千代田1−1

http://www.kunaicho.go.jp/event/higashigyoen/gyoen-map.html

 

1+8+1+1+1=12&1+1=2・・・12+2=14(7 7)(11×7)

不明な道路経由

 

 

 

神から天皇へという皇統譜の中に取り込まれた異類婚姻譚

古事記の不思議を探る

2019年1月17日更新

宮崎県日南海岸の鵜戸神宮は、山サチビコを祭っています。

宮崎県日南海岸の鵜戸神宮 山サチビコの子ウガヤフキアエズ

ノミコトを主祭神とする。

 

異類婚姻譚の持つ宿命

さて、結婚したホオリノミコトとトヨタマビメはその後どう

なったのでしょうか。懐妊したトヨタマビメは、出産のため

に海の世界からホオリノミコトのいる地上にやってきました。

そして出産の際には元の世界の姿になるので、決して出産の

様子を覗いてはならないとホオリノミコトに伝えます。

覗くなと言われたホオリはどうしても気になってしまって、

禁を犯して覗き見してしまいます。

すると妻は、大きなワニ(ワニはサメ類を指すといわれます)

の姿となって出産をしていました。見られたことを恥じた

トヨタマビメは、もう一緒には居られないといって、生まれた

子を置いて海の世界に帰ってしまいます。

https://www.kokugakuin.ac.jp/article/103150?utm_source=lift-1241815&utm_medium=logly

 

 

百舌鳥・古市古墳群 登録決定

https://news.yahoo.co.jp/pickup/6329201

 

 

世界遺産登録へ 「百舌鳥・古市古墳群」の謎を歴史作家解説

2019.05.28 07:00  NEWSポストセブン

登録されれば大阪府で初の世界遺産となる「百舌鳥古墳群」

仁徳天皇陵(時事通信フォト)

 

今年6月末~7月にアゼルバイジャンで開かれる「世界遺産委員会」

で、「百舌鳥・古市古墳群(もず・ふるいちこふんぐん)」の世界

文化遺産登録がほぼ確実な情勢だ。

歴史の教科書にも登場し「日本最大」として知られる仁徳天皇陵など、

49基の古墳からなる。日本人なら誰でも知っているようで、実は

知らない「古墳」の謎を歴史作家の島崎晋氏が解説する。

ところで、百舌鳥古墳群のなかで最大規模を誇るものには仁徳天皇陵=

大仙陵(大山)古墳、同じく古市古墳群のそれには応神天皇陵=誉田

御廟山(誉田山)古墳と、大きく二つの呼び方がある。

なぜかといえば、古墳に眠るのが誰なのか正確にはわからないからである。

https://www.news-postseven.com/archives/20190528_1380127.html

 

6+7=13

4+9=13

(13 13)(4 4)(11×4)

 

 

 

 

仁徳天皇(にんとくてんのう、神功皇后摂政57年 - 仁徳天皇87年

1月16日日本の第16代天皇(在位:仁徳天皇元年1月3日 -

 同87年1月16日)。

名の鷦鷯(ミソサザイ)は、同日生まれの平群木菟(武内宿禰の子)

と、それぞれの産殿産屋に飛び込んだ鳥の名を交換したものだと

いう。(『日本書紀仁徳天皇元年正月条)

(みささぎ)は、宮内庁により大阪府堺市堺区大仙町にある

百舌鳥耳原中陵(もずのみみはらのなかのみささぎ)に治定されて

いる(位置)。

宮内庁上の形式は前方後円。遺跡名は「大仙陵古墳(大山古墳)」

で、墳丘長525メートル、後円部286,33メートル、前方部幅347

メートルもあることが2018年4月12日に調査結果が発表された。

墳丘長、体積共に日本一の前方後円墳である。

陵名の由来は、陵墓造営中に野から鹿が走り込んできて絶命。

その鹿の耳の中からモズが現れたことから地名を「百舌鳥耳原」

と名づけられる(なお、モズは大阪府の鳥である)。

また、この古墳の北と南にも大古墳があり(北陵は反正天皇陵、

南陵は履中天皇陵)、「中陵」と名づけられている。

また皇居では、皇霊殿宮中三殿の1つ)において他の歴代天皇

・皇族とともに天皇の霊が祀られている。

仁徳天皇の在位について、実態は明らかでない。『日本書紀』に

記述される

在位を機械的に西暦に置き換えた年代については「上古天皇の

在位年と西暦対照表の一覧」を参照。

 

 

現代語訳

即位67年冬0月日。河内の石津原(イシツノハラ=和泉国

大島郡石津郷=現在の大阪府堺市石津町)に天皇は行き、陵地

(ミサザキノトコロ=墓所)を定めました。18日に陵(ミサザキ

=墓)を築き始めました。この日に鹿が、たちまち野の中から現れて、

走って、役民(エタミ=墓作りの仕事をしている民)の中に入って

倒れて死んでしまいました。その死んでしまったことを不思議に

思って、その鹿の傷を調べてみました。舌鳥(モズ)が耳から

飛び出して飛んで行きました。耳の中を見ると、ことごとく食い

割って肉が剥げていました。それでその場所を名付けて、舌鳥耳原

(モズノミミハラ)といいます。

これはその所以です。

https://nihonsinwa.com/page/1384.html

 

6+7+1+5+1+8=13+6+9=28

100+100=200

28+200=228・・・2+2+8=12(6 6)

 

 

 

鹿が表すもの

鹿というと春日大社などでは「神の使い」で神聖なものです。だから

鹿を百舌鳥が食い殺す、このページの話は、どこか妙。わたしは鹿は

「狩猟民族の象徴でもあった」のではないか?と考えています。これ

は真反対の性質なんですけど、そういうイメージが当時あったんじゃ

ないかと思っています。

仁徳天皇の本名は大鷦鷯(オオサザキ)です。「鷦鷯」とは「ミソサザイ」

という鳥の名前です。百舌鳥が鹿を食い殺すというのは「鳥…つまり大和

朝廷が、鹿…つまり狩猟民族である蝦夷や新羅を、食い殺す」という意味

があったのではないかと。それで、百舌鳥が鹿を殺したことを「大和朝廷

発展の吉兆」と考えた。

現代のわたしたちは肉を食べるし、穢れの感覚が古代ほどはありませんから、

ピンと来ませんが、百舌鳥が鹿を殺すというのはなかなか痛快な吉兆だった

に違いないでしょう。もちろん史実じゃないですよ。

https://nihonsinwa.com/page/1384.html

 

 

 

ミソサザイ(鷦鷯、学名 Troglodytes troglodytes (Linnaeus, 1758))

スズメ目ミソサザイ科ミソサザイ属に分類される鳥類の1

全長が約11 cm翼開長が約16 cm。体重7-13g。和名のサザイは、

古くは「小さい鳥」を指す「さざき」が転じた。また溝(谷側)の

些細の鳥が訛ってミソサザイと呼ばれるようになったとする説がある。

繁殖形態は卵生。繁殖期は5-8月で、4-6卵を産む。一夫多妻制で

オスは営巣のみを行い、抱卵、育雛はメスが行う。

 

 

 

モズ(百鳥、百舌鳥、鵙、学名 Lanius bucephalus Temminck &

 Schlegel, 1847スズメ目モズ科モズ属に分類される鳥類

全長19-20 cm。眼上部に入る眉状の筋模様(眉斑)、喉や頬は

淡褐色。モズは捕らえた獲物を木の枝等に突き刺したり、木の枝股

に挟む習性をもつ。秋に初めての獲物を生け贄として奉げたという

言い伝えから「モズのはやにえ」といわれる。稀に串刺しにされた

ばかりで生きて動いているものも見つかる。

秋から11月頃にかけて「高鳴き」と呼ばれる激しい鳴き声を出して

縄張り争い

をする。

1986年(昭和61年)5月11日発売 60円 国土緑化運動 アシ

モズ仁徳天皇陵

 国土緑化  「モズ・アシ・仁徳天皇陵」

https://page.auctions.yahoo.co.jp/jp/auction/s667905817

 

 

 

仁徳天皇陵が世界遺産に!がっかりする理由と仁徳天皇は

どんな人なのか。

https://jahistory.com/nintoku-tenno/

 

 

 

 

 

古市古墳群 Vol.1 古市古墳群とは何か?

https://www.youtube.com/watch?v=D5rD6SWWvpI