永良部百合の花
https://www.youtube.com/watch?v=_btPSkAcokE
両陛下 沖永良部島で交流 3日間の島々への訪問終える
11月18日 17時40分
天皇皇后両陛下は18日、鹿児島県の沖永良部島の農家や小学校
を訪れて、島の住民や子どもたちと交流されました。
両陛下は鹿児島県の島々への訪問3日目の18日、沖永良部島の
知名町にあるテッポウユリの栽培農家を訪ねられました。
島特産の白いテッポウユリは「えらぶゆり」の名で知られ、この農家
では、毎年、球根から育てたおよそ25万本の花を出荷しています。
両陛下は切り花用のテッポウユリの栽培状況をご覧になり、皇后さま
は、花に顔を近づけて「純白できれいですね。よい香りがしますね」
などと話されたということです。
両陛下は続いて、和泊町の国頭小学校を訪問し、郷土の文化を伝えよう
と30年以上続けられている黒砂糖づくりの体験学習の様子をご覧になりました。
天皇陛下は子どもたちが「サタグルマ」という昔ながらの器具で、力を
合わせてさとうきびから汁を絞り出す作業を見て、「サタグルマは重い
ですか」と優しく語りかけられていました。
皇后さまは子どもたちが作った黒砂糖を味見して、「甘くておいしい」
などと話されていました。
両陛下が学校をあとにされる際には、学校のシンボルになっている
樹齢およそ120年の大きなガジュマルの木の前で、全校児童80人が
合唱を披露しました。
島の暮らしを支える特産のテッポウユリを「島の宝」と歌った民謡で、
両陛下はじっくりと聴き入り、合唱が終わると笑顔で拍手を送られました。
そして、子どもたち一人一人に「学校生活はどうですか」などと語りかけ、
最後に天皇陛下が、子どもたちに「音楽を聴かせてくれてありがとう。
有意義に過ごされるよう願っています」と話されました。
両陛下はこれで、3日間にわたった島々への訪問を終え、沖永良部島の
空港をたって東京への帰路につく際には、見送る島の人たちを何度も
振り返って名残惜しそうに手を振られていました。
沖永良部島とテッポウユリ
島の歴史に詳しい和泊町歴史民俗資料館の職員、先田光演さんにより
奄美群島特有の赤土に根を張り、島をたびたび襲う台風による塩害にも
島にはユリとともに歩んできた島の歴史を伝える石碑があります。
太平洋戦争中、敵国だったアメリカへの輸出が主だったユリの生産を
戦後、沖永良部島を含む奄美群島はアメリカ軍に統治されましたが、
先田さんは、「農民が守り育て上げたユリを両陛下にご覧いただくのは
児童が民謡披露
今月15日には、両陛下をお迎えする校庭でリハーサルを行い、児童たち
児童に民謡を教える秋田茂穂さん(29)は、「将来子どもたちが島に帰り、
天皇皇后両陛下に合唱を披露した小学6年生の女の子は「島の宝のこと
また、三味線で伴奏した小学6年生の女の子は、「先祖から受け継いできた
1+1+1+8=11
1+7+4=12(6 6)
1+8+3+1+8+2+5+1+2+8+3=42
3+2+8=13
8+1+5+2+9=25
(6 6)
4+2+1+3+2+5+6+6=29・・・2+9=11
エラブ百合物語
リリーちゃん
明治32・3年頃のこんな逸話が、喜美留という集落で語られていると
いいますね。
台風で難破した船から助けられた外国人が、原野に咲いている
百合の花を見て、「この花は金になります。この花を育てなさい。
来年買いに来ます」といわれたそうですね。
リリーくん
その外国人はアイザック・バンディングという英国人でした。
翌年、約束通りやって来たバンディングは、大金でユリの球根を
買い取ったと、言い伝えられています。
リリーちゃん
喜美留のお百姓さんが一生懸命育てた百合は、喜美留アンゴと
いうテッポウユリの中でも大変良い品種だといいますよ。この伝承
に基いて喜美留には「えらぶテッポウユリ発祥の地」という記念碑が
建てられたんですね。
リリーくん
話はややこしくなるんだが、実はアイザック・バンディングは、初めから
百合の球根を探して沖永良部島にやって来たのではないか、という人
もいます。
その頃、百合の球根を山から掘り出して売っていたのは、永良部だけ
ではありません。大島ではドイツ人が買ってヨーロッパに送っていました。
リリーちゃん
百合の花は、キリスト教では聖母マリアの象徴としてイースターリリー
といい、大切な花だそうですね。
リリーくん
こうして毎年、山野に自生している百合根を掘ってしまうと、だんだんその
数が減っていきました。明治40年ごろには自生の百合根が手に入らなく
なりました。
リリーちゃん
せっかく見つけた宝物がなくなってしまったんですね。これは大変。
リリーくん
そうなんだ。しかし、永良部の人たちは工夫を始めました。百合は茎に
できる木子(きご)や球根の鱗片(りんぺん)をはがして植えると芽が出ます。
これらの木子や鱗片の百合を3年間育てると、大きな球根ができます。
畑で育てるといくらでも増やすことができます。やっと見つけた島の宝です。
永良部の先人たちの知恵が花開きました。
球根の鱗片から芽が出ます
エラブゆりの圃場:蕾は摘花して球根を太らせます
http://shimakatari.com/erabuyurimonogatari-5.html
沖泊海浜公園
沖永良部島でも有数の広大な砂浜が広がり、海水浴場やキャンプ場
として多くの人々で賑わう。映画「ゴジラ」で上陸地として撮影された
場所である。
http://www.okinoerabujima.info/about/okidomaripark/
テッポウユリとは?学名・原産国・英語は?
- 学名
- Lilium longiflorum
- 科・属名
- ユリ科・ユリ属
- 英名
- Easter lily
- 原産地
- 日本
- 開花期
- 6~8月
- 花の色
- 白
- 別名
- 琉球百合(リュウキュウユリ)
テッポウユリは、九州南部から沖縄にかけて分布するユリ科ユリ属の
品種です。日本固有のユリとして知られ、明治時代に海外へと輸出
されるようになりました。
他の種類と交雑しやすいことから、今ではテッポウユリを親とし園芸
品種がたくさん生み出されています。
草丈は、0.5~1.2mほどに生長し、長い楕円形の葉を互い違いに付けます。
そして夏になると、直径10~15cmほどの大きな花をいくつも横向きに
咲かせます。
花びらの白色が美しく、国内外問わず冠婚葬祭やイースターといった
宗教的な行事に広く用いられています。
白いユリは、聖母マリアの処女性を象徴する花とされています。このこと
から、「純潔」という花言葉が付きました。「威厳」は、ユリの堂々とした花姿
に由来します。
「純潔」という花言葉は、ギリシア神話のエピソードが由来となっています。
全知全能の神ゼウスの妻で、結婚や母性、貞節を司る最高位の女神「ヘラ」
のこぼれた乳が、地上で百合になったとされるエピソードがあります。
このことから、百合はヘラの花とされ、古くから清純、純潔、母性の象徴と
されてきました。
また、百合はキリスト教とも関わりの深い花で、レオナルド・ダ・ヴィンチが
描いた宗教画「受胎告知」にもその姿が描かれています。
17世紀にローマ教皇が聖母マリアの処女性を象徴する花として白い百合を
描くよう布告を出したことで、聖母を象徴する花「マドンナ・リリー」と呼ばれる
ようになります。この他にも旧約聖書「創世記」に登場するイブ(エバ)が、
エデンの園を追い出される際に流した涙から百合が生まれたという話もあります。
これらの物語や逸話、歴史的な経緯から、百合は「純潔」という花言葉をもつ
ようになりました。
第3回 「日本はユリの王国」
日本には世界中に約100種あるとされるユリのうちの15種、それも花の大きさや色、
香りなど、ほかの地域には見られない鑑賞価値の高い種類が自生していて、
やはり古くから文学や美術に登場していますが、なぜか人々が身近で楽しむ園芸
植物としてはあまり発展していません。
幕末以降に日本を訪れた欧米の博物学者やプラント・ハンターとよばれる人たちは、
人里近くの山野に咲き乱れる美しいユリを見て驚嘆し、競ってその球根を本国に
送っていますが、ヨーロッパでヤマユリやカノコユリの花が初めて紹介されたときの
衝撃の大きさは、多くの記録に残されています。
中でもテッポウユリはイースター・リリーの名で、急速にマドンナ・リリーに代わって
キリスト教会にはなくてはならない花になり、日本の開国以降、太平洋戦争前まで
毎年大量の球根が欧米に輸出されていました。
これらの日本のユリに欧米の園芸家たちは強い関心を持ち、園芸植物としての
発展をめざして品種改良に取り組んだのですが、かなり近年まであまり大きな発展
は見られませんでした。ところがバイテク技術や栽培技術の革新などもあって、
この30年ほどで日本のユリを中心にした品種改良が一気に進み、一世を風靡した
‘カサブランカ’をはじめ、最近切り花や球根が出まわっているユリの園芸品種の
ほとんどは日本のユリの血を色濃く引いているといっても過言ではありません。
■日本でセンセーションを巻き起こした‘カサブランカ’(‘Casa Blanca’)は、
日本のユリから生まれた歴史に残る園芸品種のひとつです。
花型などから、ヤマユリの血を引いていることが見て取れます。
https://www.bloomfield.jp/abc/0607.html
【ユリ・キク切花生産】
(鹿児島県大島郡)
年12月4~5日に沖永良部花き専門農業協同組合参事の大福勇氏の
案内で訪問しました。
沖永良部はテッポウユリの産地として知られています。
テッポウユリ生産の歴史は長く、1900年(明治33年)頃から始まったといわれています。明治35年に横浜の輸出業者で英国人のアイザック・
バンディング氏が来島し、和泊の市来崎甚兵衛氏にユリの球根生産を
指導したのが最初といわれています。
当初は自生のテッポウユリ(Lilium longiflorum)を掘り上げていましたが、奄美大島からリン片繁殖技術を導入して栽培が行われるようになり、
アメリカとイギリスを中心にイースター・リリーとして1900年初期には
1,200万球が輸出され、「エラブリリー」の名称で流通していました。
第1次世界大戦、第2次世界大戦中は一時的に輸出が停止することもありましたが、戦後再び球根輸出が開始されています。球根掘り上げの
大型機械の導入などの省力化が図られて生産量が増大し、「ひのもと」
や「ジョージア」などの品種を中心に600haに達したとのことです。
1987年(昭和62年)には生物系特定産業技術研究推進機構や協和発酵
などが出資して(株)沖永良部球根バイオ研究所が開設されています。
バイオ研究所ではウィルスフリーの球根生産と大量増殖を行っています。
1980年代にはいると次第に球根輸出量が減少し始めたことから切花生産が開始され、現在ではテッポウユリ切花生産が主体となっています。
全国一のユリ産地で、品種「ひのもと」が99%を占めています。
切花生産が始まると、切り花出荷組織として「えらぶ花き園芸組合」が1980年(昭和55年)に形成され、1990年(平成2年)には「沖永良部花き流通センター」
に名称変更しています。沖永良部花き専門農業協同組合は、沖永良部花き
流通センターから花き専門農協として平成20年に設立され、平成21年7月
1日から事業を開始しています。
ゆり部会、オリエンタル・洋花部会、クジャク・ソリダゴ部会、キク部会、グラジオラス部会の5部会が組織化されています。
テッポウユリの切花は和泊町を中心に66軒の農家で生産されています。
球根生産は少なくなったものの560万球が生産されています。
沖永良部花き専門農業協同組合の方々と話しをしていて、団結力が強いことを
感じました。その理由の一つに、西郷隆盛の教えがあります。
西郷隆盛は文久2年(1862)に沖永良部に1年半流罪されました。その間に島民に
様々な教えを施しましたが、その中に「社倉(農業共済制度)」があります。
当時、台風や干ばつに悩まされていた島民は西郷隆盛の教えに従い毎年食料を
蓄え、凶年の際に配給する制度を確立しました。明治3年(1870)には全国に先駆
けて沖永良部社倉が設立され、相互扶助の考え方が浸透し、島民の団結心に
繋がっています。
https://www1.gifu-u.ac.jp/~fukui/03-1-108.html
西郷 隆盛
文政10年12月7日(1828年1月23日) - 明治10年(1877年)9月24日)
薩摩藩の下級武士であったが、藩主の島津斉彬の目にとまり抜擢され、
当代一の開明派大名であった斉彬の身近にあって、強い影響を受けた。
斉彬の急死で失脚し、奄美大島に流される。その後復帰するが、新藩
主島津忠義の実父で事実上の最高権力者の島津久光と折り合わず、
再び沖永良部島に流罪に遭う。しかし、家老・小松清廉(帯刀)や大久保
の後押しで復帰し、元治元年(1864年)の禁門の変以降に活躍し、薩長同盟
江戸総攻撃を前に勝海舟らとの降伏交渉に当たり、幕府側の降伏条件を
受け入れて、総攻撃を中止した(江戸無血開城)。
その後、薩摩へ帰郷したが、明治4年(1871年)に参議として新政府に復職。
さらにその後には陸軍大将・近衛都督を兼務し、大久保、木戸ら岩倉使節団
の外遊中には留守政府を主導した。朝鮮との国交回復問題では朝鮮開国を
勧める遣韓使節として自らが朝鮮に赴くことを提案し、一旦大使に任命された
が、帰国した大久保らと対立する。
明治6年(1873年)の政変で再び鹿児島に戻り、明治10年(1877年)に私学校
生徒の暴動から起こった西南戦争の指導者となるが、敗れて城山で自刃した。
| 死没 |
|---|
1+8+7+7+9+2+4=38・・・3+8=11
城山決戦
9月24日、午前4時、政府軍が城山を総攻撃したとき、西郷と桐野利秋・桂久武・
村田新八・池上四郎・別府晋介・辺見十郎太ら将士40余名は洞前に整列し、
岩崎口に進撃した。まず国分寿介(『西南記伝』では小倉壮九郎)が剣に伏して
自刃した。桂久武が被弾して斃れると、弾丸に斃れる者が続き、島津応吉久能
邸門前で西郷も股と腹に被弾した。西郷は別府晋介を顧みて「晋どん、晋どん、
もう、ここらでよか」と言い、将士が跪いて見守る中、襟を正し、跪座し遙かに東に
向かって拝礼した。遙拝が終わり、別府は「ごめんなったもんし(御免なっ給もんし
=お許しください)」と叫んで西郷の首を刎ねた。享年51(満49歳没)。
9+2+4+4+4+5+1+4+9=42・・・4+2=6
思想
人間がその知恵を働かせるということは、国家や社会のためである。だがそこには
人間としての「道」がなければならない。電信を設け、鉄道を敷き、蒸気仕掛けの
機械を造る。こういうことは、たしかに耳目を驚かせる。しかし、なぜ電信や鉄道が
なくてはならないのか、といった必要の根本を見極めておかなければ、いたずらに
開発のための開発に追い込まわされることになる。まして、みだりに外国の盛大を
羨んで、利害損得を論じ、家屋の構造から玩具にいたるまで、いちいち外国の
真似をして、贅沢の風潮を生じさせ、財産を浪費すれば、国力は疲弊してしまう。
それのみならず、人の心も軽薄に流れ、結局は日本そのものが滅んでしまうだろう。
坂本龍馬を鹿児島の自宅に招いた際、自宅は雨洩りがしていた。夫人の糸子が
「お客様が来られると面目が立ちません。雨漏りしないように屋根を修理してほしい」
と言ったところ、西郷は「今は日本中の家が雨漏りしている。我が家だけではない」
と叱ったため、隣室で休んでいた龍馬は感心したという。
江戸開城(えどかいじょう)
江戸時代末期(幕末)の慶応4年(1868年)3月から4月(旧暦)にかけて、明治新政府軍
(東征大総督府)と旧幕府(徳川宗家)との間で行われた、江戸城の新政府への引き
渡しおよびそれに至る一連の交渉過程をさす。江戸城明け渡し(えどじょうあけわたし)
とも江戸無血開城(えどむけつかいじょう)ともいう。
| 4月11日(天保暦)
|
江戸城明け渡し。 | 5月3日 |
4+3+4=11
1+8+6+8+4+1+1=29・・・2+9=11
1+8+6+8+5+3=31・・・3+1=4(2 2)(11×2)
両陛下、お二人が詠まれた歌の「書」の特別展を鑑賞
この特別展は、文化勲章受章者など著名な書家や文化人による、
天皇陛下や皇后さまが詠まれた歌の「書」、160点が展示されています。
書家の新井光風による陛下の今年の歌会始の歌「邯鄲(かんたん)
の鳴く音聞かむと那須の野に集ひし夜をなつかしみ思ふ」という書を
ご覧になった陛下は、説明にあたった日本書道美術館館長に、初めて
「邯鄲」という虫の音を聞いたときの感想をなつかしそうに話されたと
いうことです。
また、両陛下は、去年5月に熊本地震の被災者をお見舞いしたときの
歌「幼子の静かに持ち来し折り紙のゆりの花手に避難所を出づ」という書
もご覧になりました。陛下は、「そのときの花は暖炉のわきに飾ってある」
と述べ、皇后さまは「かわいいお子さんでしたね」と思い出を語られて
いました。両陛下は帰り際、館長に「いろいろな方に書いていただいて
うれしく思います。これからも続けてください」と述べられたということです。
http://news.tbs.co.jp/newseye/tbs_newseye3215656.html
1+9+1+4+2+5=22(11×2)
1+6+5=12(6 6)
Origami Flower - Lily (100th video!)
https://www.youtube.com/watch?v=PWylGb8EyQw
【ダイジェスト】高橋五郎先生「天皇の金塊 ゴールデン・リリーの謎」
特別記念独演会ワールドフォーラム2016年3月
https://www.youtube.com/watch?v=yZLJLJEfR4I
金のユリ作戦を知ってます?
久しぶりにゴールデン・リリーの話をしよう。
このゴールデン・りりーとは昭和天皇の読まれた歌にちなんで
「金のユリ」と名付けられた戦時中の略奪作戦を総称するものである。
始めてこの話を読んだときは本当に驚いた。
それはシーグレイブ氏の「Yamato Dynasty」で始めて世に紹介され、
さらに続編である「Goldwarriors」で全貌があきらかにされた。
(始めて聞く方はクリックしてダウンロードしてください)
http://sibanokuni.exblog.jp/12761854/






