SMAPと終戦記念日 | ☆ sweet home ☆

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SMAP解散、メンバー5人のコメント全文

2016年8月14日01時12分


アイドルグループ「SMAP 」の解散について、ジャニーズ事務所は

14日未明、各メンバーのコメントを発表した。全文は以下の通り。

http://www.asahi.com/articles/ASJ8G05QQJ8FUTIL02P.html?ref=yahoo


2+1+6+8+1+4=22(11×2)

1+1+2=4   (4 4)(11×4)


最もよく知られた説として”Sports Music Assemble People”の

頭文字に由来すると言われています。

http://laughy.jp/1425456648664134320

  

「政治とメディアの距離がおかしい」 いま問い直される

大本営発表の歴史
BuzzFeed Japan
 8月14日(日)6時0分配信


後、権力者にとって都合のいい情報の代名詞となった旧日本軍の

「大本営発表」。実は、第二次世界大戦当時も疑問視している国民は

いた。その声が広がらなかった、最大の原因は政治とメディアの一体化だ。

なぜ、メディアは明らかなウソ発表を許容してしまったのか。若手近現

代史研究者は、「いまの時代こそ、大本営発表の失敗を学ぶ必要が

ある」と語る。その真意は……。【石戸諭 / BuzzFeed Japan】 

後71年「いま政治とメディアの距離がおかしい」


「戦後70年を過ぎた、いま政治とメディアの距離がおかしくなっています。

例えばNHKのトップである籾井勝人会長が熊本地震のとき、原発報道

は『公式発表をベースに伝えること』と発言しました」


NHK・籾井会長と「マスゴミ」批判論の共通点


「これは大本営発表の問題を歴史から学んでいない発言です」

大本営発表は、戦時の「公式発表」だ。ありもしない戦果を発表し、不正

確どころか、自分たちに有利な捏造した情報を流した。

「当時のマスメディアも公式発表をそのまま載せていたのではなく『公式

発表をベース』にした、軍部のレクチャーをもとにした内容を載せていた。

その結果、なにが起きたのか。政治とメディアの緊張関係がなくなり、

都合がいいにもほどがあるデタラメな情報が歯止めなく掲載されるよう

になった。

http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20160814-00010001-bfj-pol



(Wikipediaより)大本営発表は846回行われ、第1回の大本営発表は1941年 昭和 16年)

12月8日 午前6時に行われ、7時に[5] ラジオ放送 (日本で唯一の放送局

だった「社団法人日本放送協会」、現在のNHKラジオ第1放送 )で、対

アメリカ イギリス 戦(太平洋戦争)の開戦第一報が報道された。

以下は臨時ニュース チャイム の後に当時のアナウンサー が読み上

たその発表文である。


8+4+6=18(6 6 6)

1+9+4+1+1+2+8+7=33(11×3)

<マッカーサーの元通訳官>戦後平和、原点直視を

毎日新聞  8月15日(月)7時0分配信


戦後日本の原形が作られた占領期、連合国軍総司令部(GHQ)の最高

司令官、ダグラス・マッカーサー(1880~1964年)の傍らで通訳を務

めた日系2世の男性が、今も東京都内で暮らしている。GHQの元通訳官、

ジョージ・キザキさん(84)だ。15日、71回目の終戦記念日を迎えた。

憲法改正が議論される現代の日本は、キザキさんの目にどう映っている

のだろうか。【川崎桂吾】

【写真】空から見た廃墟の東京=1945年8月16日撮影

 「まるで無表情。少しでも視線を外せば、強い調子で『お前は誰に向か

って話しているんだ』と言われました」。キザキさんは、マッカーサーと初

めて会った時のことを鮮明に思い出す。日本へ赴任した直後、50年前後

のことだ。

 アメリカ生まれ。「8月15日」を日系人収容所で迎え、戦後、米軍の軍属

となった。GHQには当時、他にも多くの日系人が勤務していたという。

 間近で接したマッカーサーは、執務に全精力を傾けているように見えた。

食事といえば、スクランブルエッグにスモークハムといった簡単なものば

かり。「軍人が日曜日に休んでいては、誰が国を守るんだ」が口癖で、激

高すると手にしたつえをたたき折ってしまうこともあった。「軍人の神様」。

キザキさんの目にはそう映った。

 GHQでの任務は日によって違った。マッカーサーの通訳を担当すること

もあれば、引き揚げ船の監視を命じられることもあった。要人との会談を

通訳した時は「いま会った人物の顔は忘れろ。内容も記憶するな」と厳命

された。冷戦が始まり、共産主義の脅威が語られていたころだ。

 占領統治を見届け55年ごろ、米軍を離れた。以後は日本を拠点に貿易

の仕事に従事した。GHQにいたことを語り始めたのは、最近になってから

だ。

 戦後71年。日本は岐路にある。参院選で改憲勢力が3分の2を占め、

憲法改正が現実味を帯び始めた。改憲派は「憲法はGHQに押しつけられ

たもの」との主張を強めるが、キザキさんは「マッカーサーがいなければ

戦後の日本はだいぶ違った形になった。功績を再評価すべきだ」と訴える。

 マッカーサーは離日後、「日本は12歳の少年のようだ」と語った。日本社

会の未熟さをたとえた言葉だった。日本はどれだけ大人になっただろうか。

キザキさんは「40歳くらいにはなったのではないでしょうか」と答えた。

「東京は焼け跡だらけでした。それがこんなに豊かになり、平和にやって

こられたんですから」

 「国のかたち」が大きく変わるかもしれない日本を、歴史の証言者は見

守る。その手には、マッカーサーが使っていたというつえが握られていた。

 【ことば】マッカーサーの占領統治

 日本のポツダム宣言受諾を受け、連合国軍最高司令官に任命された

マッカーサーは1945年8月30日、厚木基地に降り立ち、51年まで日本

の占領統治を取り仕切った。天皇の戦争責任を追及する国際世論をかわ

し、天皇制存続を決定。46年の新憲法制定では、天皇の地位や戦争放棄、

民主化の方針について定めた「マッカーサー・ノート」に基づいた草案作り

を指示した。一方で50年に朝鮮戦争が始まると、非軍事化の方針を撤回

した。これらの諸施策は、戦後日本の行方に大きな影響を与えた。

最終更新:8月15日(月)9時0分


8/15   7:00

8+1+5=14(7 7)(11×7)  (7 7 7)

8/15   9:00

14(7 7)(11×7)&9(3×3)(11×3)

1+8+8+1+9+6+4+8+4+1+5+7+1=63   6+3=9(3×3)(11×3)

5+8+1+5+5+5+7+1+1+2+4=44(11×4)

1+9+4+5+8+3+5+1+4+6+5=51   5+1=6

63+44+51=110

1+9+4+5+8+1+6=34  110+34=144  1+4+4=9(3×3)(11×3)



(Wikipediaより)

ダグラス・マッカーサー

マッカーサー家は元々はスコットランド 貴族の血筋で、キャンベル氏族  

の流れを汲み,同じスコットランド系のフランクリン・ルーズベルト とは7つ

の家系、ウィンストン・チャーチル とは8つの家系を隔てた遠戚関係にあたる。

1928年 アムステルダムオリンピック ではアメリカ選手団団長となった。

マッカーサーは、降伏文書の調印に先立つ8月30日に専用機「バターン号

神奈川県 厚木海軍飛行場 に到着した。

{バターン号2号機(ダグラス  C-54B 輸送機の改装機)午後到着65歳}


1+9+4+5+8+3+1+2=33(11×3)

2+5+4=11   6+5=11



 

http://showa.mainichi.jp/news/1945/08/post-227f.html  


占領当時のマッカーサーはフリーメイソン のフィリピン・グランドロッジ

 (Manila Lodge No.1) に所属しており、32位階の地位にあったとされる

朝日新聞(1945年8月31日)

その後、横浜 の「ホテルニューグランド 」に滞在し、降伏文書の調印式に

アメリカ代表として立ち会った後に東京 に入り、以後は連合国軍が接収

した皇居前の第一生命館 内の執務室で、1951年4月11日まで連合国軍

最高司令官として日本占領に当たった。


1+9+4+5+8+3=30

1+9+5+1+4+1+1=22(11×2)


マッカーサーには大統領ハリー・S・トルーマン から米国史上空前の全権

が与えられていた。

占領当時、マッカーサーは多くの日本国民より「マ元帥」と慕われ、絶大な

人気を得ていた。GHQ総司令部本部が置かれた第一生命館 の前は、

マッカーサーを見る為に集まった多くの群衆で賑わっていた。

自然発生的な人気ではなく、自分の人気を神経質に気にするマッカーサー

の為に、GHQの民間情報教育局 (CIE) が仕向けたという指摘もある。

マッカーサーとGHQは戦時中の日本軍捕虜の尋問などで、日本人の扱い

を理解しており、公然の組織として日本のマスコミ等を管理・監督していた

CIEと、日本国民には秘匿された組織であった民間検閲支隊 (CCD)を巧み

に利用し、硬軟自在に日本人の思想改造・行動操作を行った、もっとも

重要視されたのがマッカーサーに関する情報操作であった。




「マッカーサーは、日本国民というかアジアの人間をたいへんよく知って

いたんです。彼は父親がマニラの総督だったためフィリピンの生活が長く、

かつて東郷平八郎元帥にも会い、日本の軍人の立派さに感服したなどと

いう過去や、日本国内を旅した経験もある人で、アジアの民族の特徴

――怒らせると怖いが、普段は羊のように従順である、これをうまく扱う

には、できるだけ自分が表に出るのではなく陰の場所にいて、厳かに

君臨したほうがよい、云々――をよく心得ていました。」
(半藤一利 著 『昭和史 戦後編』 平凡社)

http://alocaltrain.blog.so-net.ne.jp/2010-03-19



韓国のクラスメートが話してくれた「3S」政策。日本ではすでに完了?