こんにちは、談話喫茶"ホーボー軒”へようこそ。

店主の Klavi-Seli にて御座候、どうぞごユルリと☕。

 

さて、交響曲ファンにとって「ベートーベンが蚊帳の外」ならば、

じゃあ誰が蚊帳の中か。

イキナリ言ってしまおう。

 

♢マーラー

♢リヒャルト・シュトラウス、そして

♢ブルックナー

の3人だ。

あと、付け加えるとしたらショスタコーヴィチか。

 

理由は云うまでもナシ。

この3者の交響曲が、オーディオ装置の再生度合いを測るバロメーターとして機能しているから。

あるいは適しているから、というべきかな。

「え、そんな。チャイコフスキーもブラームスも入ってないじゃん。そんなのウソだろ!」

という、至極まとも全うな感性の皆さん。

そうなんです。

べートーベンはもとより、ピュートル君もヨハネス君も交響曲ファンの方々には、お子ちゃま扱いなのですよ。つまり

 

「そんな通俗オンガクなんか恥ずかくて語ってれるか」

 

という分類。

だが、それもタテマエです、オーディオ愛好家達の。

これっくらいの大編成じゃないと、オーディオ再生能力比べにならない故に選ばれた作曲家たちなのである。

これがIさんへの、拙なりの回答だ。

ん、ヤパ~リ全然合理的な説明にはならんかった(..;)。

 

バッハの合唱&歌唱を含む様々な編成のカンタータや、ヘンデルの珠玉の様な沢山の管弦楽曲。

それ以外、沢山タ~クサンの作曲家たちが書き残した、交響曲を含む様々な管弦楽曲。

 

それらを幾らリリースしても、先の3人の需要に勝てっこないことが自明と決め込み、世に出そうとしないのだ、産業側は。

当然だ。

カスタマーはクラシック愛好家を装ったオーディオ愛好家達だから。

 

「いいえ、レコード会社が出してくれないから、私たちだって知らされないんじゃない!」

 

うむ、そういう見方も出来よう。

だが、今さらレコード会社を始めとする音楽産業は、オーディオ家メインのマーケティングから逃れられない状態に陥ってしまっている。

それは過去に当てたタイトルの改訂版を配給し続ける邦画業界と非常に構造が似ていると思う。

細雪、雪国、伊豆の踊子 … 何作あることか。

 

これがクラシック音楽愛好家が、音楽産業から供給されるコンテンツとの不一致感を募らせる根本原因ということである。

 

この3人、いずれも後期ロマン派、という事になっている。

が、ロマン派に前期も中期も後期もあるもんか。

要はロマン派だろう。

そしてロマン派括(クク)りなれば、我が国のオーディオではなくクラシック愛好家に於いて、圧倒的な人気を持つのはシューマンとショパンである。

次がチャイコフスキーとワグナーだろう。

3人の内、マーラーのポピュラリティだけは未だしも理解し得る。

が、シュトラウスといったら、リヒャルトではなくヨハンの方。

ましてやブルックナー、シューマンとショパンを愛する者なれば、見向きもしないままに、生涯を終えるだろう。

 

だから面白い(てか本当は不愉快な)現象がある。

それなりの権威と良識を持つ見識者でさえ,シューマンの交響曲を、

「オーケストレーションが未熟である」

「管弦楽法に難がある」

「交響曲として破綻している」

等と宣うのが、平気で横行している。

これに明確な異議を唱えたのは、ピエール・ブーレーズだけだ。

左様。これはヒドい出鱈目なのである。

この稿の締めくくりとして、言って置こう。

 

アホか。作品の価値をオーディオ再生の満足度で測るな。

ロベルトはオーディオ装置の為に作曲したんじゃなか。

交響曲の作品価値は、動機労作の妙味で評価せい。

それが出来ないならば、クラシックファンを名乗るな。

 

そして …

 

ドイツの3大Bのラスト一人はブルックナーのハズだ、とするクラシックのお面被ったオーディオマニアの皆さんへ。

次回、理由を教えてあげよう。

なぜブルックナーではなくブラームスなのか。

当初はブルックナーダッタン人だぜ😀。

そしてもう一点。

シューマンとショパンの愛され方は、何に所以するか。

これにも言及してゆこう。