「天国だと思うな」
「いいや、地獄に決まっている」
二人の議論は平行線だった。お互いに全く歩み寄る気配はなく、相手をねじ伏せるだけの決定打も出ない。二人を見下ろす『考える人』も心なしか退屈そうである。ーーいや、あるいはどちらが正しいかについて考えているのかもしれない。
「それにしても」
最初に動きを見せたのは天国派の男だった。
「いくらなんでもそのまんますぎると思わないか?」
ため息まじりに右方向を指差す。その先にはかのオーギュスト・ロダン作による『地獄の門』ーーのようなものが聳えている。
「あれが噂に名高い『考える人』か」
地獄派の男も門を見た。門の上で座る有名な裸の男を指差す。「本物は初めて見た」
「いや、本物は確かブロンズ製だよ。あれはどう見ても違うじゃないか」と、天国派。
「だから本物なんだろうよ」
地獄派が言うように、意匠こそ『地獄の門』なのだが、二人が見上げるそれは、まさに本物と呼ぶべきものだった。
荘厳で、生々しく、リアルで、それ故にロダンのものに比べてどこかイマイチだった。
イマイチながら、ご丁寧に神曲に登場する銘文もきっちり刻まれていた。
○
つまりここは二人の男にとって死後の世界である。
二人の議論の内容は、ここが天国が地獄か、ということではない。
その発端を知るため、少々を時間を遡る。
○
目を覚ましたのは二人同時で、起き上がったのも同時、そんな二人をなんとも言えない表情で見ているもう一人の存在に気づいたのもまた、同時だった。
髪はもじゃもじゃ、四角い輪郭で、四角い眼鏡をかけている。ぎょろりとした目で二人ーーまだこの時点では天国派でも地獄派でもないーーを交互に見てから、のっそりと喋り始めた。
「ではそのォ、お二方とも目を覚まされたということですので、簡単にご説明させていただきます」
それからもじゃもじゃ頭をくしゃくしゃとかき分けた。頭頂部が少し盛り上がっている。角に見えなくもない。
「えー、申し遅れましたが、私、鬼でございます」
ぺこりと一礼。それきり一仕事終えたような顔で黙ってしまった。
筆者注)さて、勿論ここから二人の男による怒涛の質問攻めが始まり、鬼との質疑応答の末に現状を把握するまでの一悶着があるわけだが、ここは大胆に省略させていただく。「それはそういうものだ」ということを理解して、諦める作業ほど退屈なものはないからだ。
「ーー要するに、僕とこの人は事故で死んじゃって、今こうして死後の世界にいる、ということなんだね」
「ハア、左様でございます。それでですねェ、私がこうしてやって参りましたのは、お二方にこの先のことを決めて頂きたいからなんでございます」
一通り落ち込み、泣き、悔しがり、疲れ切った男達に対して、鬼はどこまでも自分のペースを崩さない。鬼が鬼である以上当たり前なのだが。
「この先? どの先があるっつうんだよ。死んだらそれまでだろうが」
憮然とした態度で投げやりなことを言ったのは後の地獄派、先に事実確認をしたのは後の天国派である。
「いえいえ、お二人には天国に行くか地獄に行くか決めていただかないといけないんです」
★鬼の説明
昔は私どもの上司でもあります閻魔大王様が、天国行き地獄行きの判断を下しておったのですが、これはご存知でしょうか。ご存知? それは結構でございます。
ですが先日閻魔大王さまがめでたく定年退職なさいましてですね、今はもう天国地獄の判断を下せる者が誰もおらんのですな。
はい? 後釜ですか? いえいえ、私らなんぞとてもとても。
閻魔大王様はですね、いわゆるエリートでございまして、インテリなんでございます。
一応代わりの方が来られるという話はですね、あるにはあるんですが、それがどうやら遅れ気味で、今すぐというわけにはいかんと。
そんな大変な時にあなた方がやってきて、それがまた善人というほどでもなく悪人というほどでもない、なんとも中途半端な人生を送ってきたという。
分かりづらいのが来たな、と。
分かりづらいのがペアで来たな、と。
私どもも非常に困惑しておるんでございます。
それで散々考えた結果として、もういっそお二方には好きな方を選んでもらおうかと思いまして。
え?
天国? 天国に行きたいんですか?
いやいや、まァそのお気持ちは分かるんですが、その前に言っておかないといけないことがあるんでございますよ。
天国と地獄と言いますが、あなたが生きておられた世界は天国か地獄かのどちらかなんでございます。
どっちか言え?
いえいえ、これは決まりとしてお教えするわけにはいかないんでございます。
とにかく、そちらを選べば、あなた方には生き返っていただきます。もう片方を選べば、そのままその言葉通りの死後の世界に旅立っていただく、というわけなんでございます。
あそこに見えます門の向かって右側の扉を開ければ天国、左をあければ地獄でございます。
どちらを選ぶか、ごゆっくりお考えくださいませ。
ご安心なさってください。お二人の身体はまだ死んではおりませんので、今頃病院で然るべき措置を受けておられることでしょう。
○
鬼は今度こそ一仕事終えたという顔でどこかに行ってしまった。
「そうか、僕たち死んでなかったのか!」
「全く、死んだと聞いた時は不運を嘆いたが、まだまだ天は俺たちを見捨てなかったらしいな」
晴れやかな顔をした二人は、それぞれ左右別の扉を開けようとして、またしても二人同時に互いを見た。
「え、なんで!?」
「お前こそ、正気か?」
さらに声を揃えて、
「「生き返りたくないのかよ!?」」と、同時に叫んだ。
ーーそして、冒頭である。
★天国派の主張 1
まずこの二択で意見が分かれたこと自体信じられないんだけど、いいかい、冷静になって考えてみるんだ。
君が生きてきた世界は地獄だったか? 違うはずだ。
家族がいて、友人がいて、憧れの人がいた。
毎朝起きるのが楽しみだった。今日はどんなことが起こるだろう、どんな幸せが訪れるだろう。
そして毎晩眠る前に思うんだ。今日も楽しかった。明日はもっと楽しいんだろうな、とーー。
世界は希望に満ちている!
あれが地獄だって? そんなわけないだろ。天国以外の何物でもない!
それにだよ、万が一現世が地獄だったとしても、こっちは天国に行けるんだ。
天国を選ばない理由なんてないんだよ。
★地獄派の主張 1
ふん、お前それ本気で言ってるのか?
俺にとって人生とはまさに地獄だった。
家族はいた、友人もいた、愛した女もいた。だがその全ては俺を裏切った。
朝になって、一日が始まるのが憂鬱だった。今日も何か辛いことがあるんだ、嫌なことが起こるんだと考えてばかりだった。寝る前もそうだ。このままずっと寝てられたらなと思いながら眠りについていた。
世界には絶望しかないんだ。
あれが地獄じゃないなら何が地獄なんだ。
あとな、天国っていうのも怪しいもんだ。
天国を選んだ者は全てこの世から消え去ってしまうに違いない。奴らは決まってこう言うのさ。
「あの苦しみを味わうくらいなら完全に消滅した方がまし」
★天国派の主張 2
現世が天国だったという証拠があるんだ。
それは僕が憧れていたある女性がいるから。それに尽きるんだ。
だってその子、間違いなく天使なんだよ。かわいいしさあ、気が利くし、優しいし。時には厳しい時もあるけど、最後は必ず優しく微笑んでくれるんだぜ。
天使がいるなら天国だろ?
え? いや、違うよ。そういうんじゃない。
あの子は誰にでも優しかったから、誰のとかじゃないんだ。
天使ってそういうもんだろ? 誰かのものにはならないんだよ!
★地獄派の主張 2
天使ね。本当にそんな女がいると思ってるのか。
まあそれはいいとして、俺からも言わせてもらうけどな、俺の付き合ってた女は悪魔だったよ。
そいつは俺にばかり働かせ、家では何もせず、すぐに俺の稼ぎを空にした。その上、他の男を取っ替え引っ替えしていやがった。
確かに綺麗な顔をしていたが、悪魔ってそういうもんだろう。魅了して、いいようにさせて、最後は全て奪い去る。
そんなとんでもない悪魔がいたんだ。あそこは地獄だった。
ん? ああ、そうだよ。付き合ってたよ。まあ悪魔だからな。それくらいはあるよ。
○
「もし現世が天国だったとしたら、天使だっていうその女とは今後も付き合えないままなんじゃないのか?
それに、現世が地獄だった場合、天国を選んだらその女とは一生会えないってことになるだろ。
地獄の現世なら、万に一つ、いい仲になれるかもな」
天国派の男は雷に打たれたような顔になる。それから苦し紛れに最後の主張をした。
「いや、現世がそこまで地獄だったっていうなら、天国選んで消えてもそれはそれでありなんじゃないの?」
地獄派の男はそれきり何も言えなくなった。
○
「オヤ、まだ決められてないようでございますね。
別に二人一緒の扉に入らないと駄目なんてことはないんですから、お互いさっさと決めてしまわれてはいかがですか?」
黙りこんでいた二人は、その言葉に対してようやく言葉を発することができた。
「「先に言えよ……」」
○
「僕は当然こっちだ」
「俺もこっちに決まってる」
そうして、天国派は迷いのない足取りで左の扉、地獄派もどこか楽しそうに右の扉の前に立った。
共にとても晴れやかな顔をしていた。新たな価値観を教え合った二人は、もはや相互に恩人であった。
そして、今や地獄派の天国派と、天国派になった地獄派は、最後の最後まで二人同時に互い扉を開けた。
○
目覚めてすぐ、布団の重みと、初めて見る天井の模様で、ああ、自分が正解だったのかと確信した。
つまり天国だと思っていたこの世は地獄だったらしい。知らなかった。
これから地獄で生きていくのかと考えたが、それでも世界は希望に満ちていた。なにより、天使でないらしい憧れのあの子と深い仲になれるかもしれないという可能性が嬉しかった。
地獄に天使がいるわけがないのだ。本物の天使でないのなら、もしかすると。
天国を選んだあの男はどうなっただろう。今頃全てのしがらみから解き放たれているのか、あるいは真の天国で今度こそ幸福に浸っているのか。
後者であればいい。そして願わくば、僕が改めて天国に向かった時に再会できますように。
身体を起こそうとして、僕は信じられないものを見た。
○
「なんで君がまだいるんだ」
「お前こそ、地獄にいったんじゃなかったのか」
そこは病院、というより診療所の一室らしかった。ベッドが二つ、ほどほどの距離で並んでいる。地獄の門の前で議論を交わしていた二人は首を傾げた。
互いに何も言えずにいると、目の前にあるなんの変哲もない扉が開いた。今度は驚きで何も言えなくなる。
「ああ、目を覚まされましたか。お二方、気分はいかがでしょうか」
入ってきたのは四角い顔に四角い眼鏡をかけたもじゃもじゃ頭の男だった。ぎょろりとした目で二人を見て、
「まあ命に別状はないようでよかったですな。治療というような治療もしておりませんのでお代は結構でございます」と言った。
どうやら医者らしいが、その見た目は鬼そのものだった。角こそ見えなかったが、考えてみれば鬼もほとんど見えていなかった。
「ええと、僕達は何故ここに?」
「ハア、お二方はですね、こう、歩きながら携帯電話をいじっておったんですが、そこの曲がり角のところでこう、ガツンとぶつかってですね、気を失っとったんでございます。見た感じ特に問題はなさそうなんですが、もし心配なようなら、大きい病院で検査をおすすめいたしますけど、どうされます?」
命に別状はない。ただの前方不注意で間抜けにも気を失っていただけ。
あの議論は一体なんだったんだと二人して額を触ると、大きいコブが出来ていた。
角には、見えそうにない。