敵と戦って表面上勝ったと思っても、敵がまだ闘争心を燃やし続けて負けるものかという気持ちでいる場合は、自分の心を切り替え、敵が心底参ったと思うところまで徹底的に打ちのめす事を「底を抜く」と武蔵は記しています。そして、続けて次のように述べています。
「底よりくづれたるは、我心残すに及ばず。さなき時は、のこす心なり。残す心あれば、敵くづれがたき事也(写本)。」
この文の「我心残すに及ばず」の「心」は、「俄(にわか)に替りたる心になって、敵の心をたやし、底よりまくる心に敵のなる所、見る」心、すなわち、心機一転して敵が闘争心を失って心底負けたと思うまで見届けるというウォッチャー(観察者)の心のことです。
また、「残す心あれば、敵くづれがたき事也。」の「心」は上にては敗けても下にては負けない心、すなわち敵とあくまでも戦おうとする心、敵愾(てきがい)心のことです。
まず、問題となるのは、「さなき(そうではない)時は、のこす心なり。」の「心」が我の心か敵の心かと言う事です。前の文につながるのならば、我であり、後ろの文につながるのであれば、敵ということになります。ここで、 「さなき時」とは、敵が敗けたように見えても底より崩れずにいる時のことです。
次に断定の助動詞「なり」は、「(AはB)である」の意で、Bが「のこす心」の場合、Aは何かという事です。Aには、例えば「とをこすという心肝要なり(岩波文庫88頁1行目)。」、「物事の景気といふ事は、我智力強ければ、必ずみゆる所也(岩波文庫89頁1行目)。」のように我や敵のような「人」ではなく、「事物」が入ります。ところが、「そうでない時は、(Aは)のこす心である。」のAは敵でも我でもなく、また該当する事物もありません。このままでは、この文は立ち往生します。
そこで、ここに誤写があるのではないかと考えました。「のこす心なり」ではなく、「のこす心あり」ではないかと。「(Aに)残す心こころがある。」ということです。また文体上も、「のこす心あり。残す心あれば、」と次の文にスムーズにつながります。 なお、地の巻/兵法の武具の利を知るといふ事の中で、「長刀(なぎなた)は戦場においては鑓(やり)におとる心あり(岩波文庫31ページ10行目)。」という類似表現が見られます。
「さなき時は、のこす心あり。残す心あれば、敵くづれがたき事也。」は、「敵が底より崩れずにいる時は、(Aに)残す心がある。(Aに)残す心があるならば、敵は崩れにくい。」の意で、これでおのずとA=敵ということがわかります。そしてこの「残す心」は、「心をた(絶)へさざるによって、上にてはまけ、下の心はまけぬ」敵の心、すなわち、闘争心を絶やさないため外からは敗けているように見えていても内心では負けていない敵の心というわけです。
結局、写本は以下のように訂正されます。
(写本)
「底よりくづれたるは、我心残すに及ばず。さなき時は、のこす心なり。残す心あれば、敵くづれがたき事也。」
(原本)
「底よりくづれたるは、我心残すに及ばず。さなき時は、のこす心あり。残す心あれば、敵くづれがたき事也。」
(訳)
敵が底から崩れた場合は、我方は(敵が心底負けたと思っているかどうかを見極める)心を残す必要はない。敵が敗けたように見えても底から崩れていない場合は、敵には闘争心が残っている。敵に闘争心が残っていれば、敵は崩れにくいものである。