武蔵は、本条の前に、「一拍子の打」という条を設け、これは、「敵のわきまえぬうち」あるいは「敵の太刀、ひかん、はずさん、うたんと思ふ心のなきうち」を「いかにもはやく、直に打つ拍子」のことであると記しています。すなわち、敵が太刀で対応する心構えもできない「間」をとらえ、それを一瞬のうちに打つ拍子を「一拍子」と言っています。
これに対し、本条の「二のこしの拍子(写本)」とは、「我打とみせて」というフェイント(見せかけ)をかけて生じた「敵のたるむ所」を打つ拍子の事であるとして、以下のように記しています。
「二のこしの拍子、我打ださんとする時、敵はやく引、はやくはりのくる(張り退くる)やうなる時は、我打つとみせて、敵のはりてたるむ所を打ち、引てたるむ所を打つ、是二のこしの打也。」
「たるむ所」とは、敵の気が弛み、我方が付け入ることのできる「間」(ま)」、「隙(すき)」のことです。
「間」とは、敵の動作と動作の間の休止時間であり、打ったり引いたりすることができない無防備な状態(ーこれを柳生宗矩は「死太刀」と称していますー)に敵がさらされている時のことです。この「間」を打つことにより、確実に敵を倒すことができます。
「一拍子の打」では、「敵のわきまえぬうち」が「間」であり、「二のこしの拍子(写本)」では我方のフェイントによって生じた「敵のたるむ所」が「間」であります。
ここで問題の「二のこし」ですが、これまでいくつかの解釈がなされていますが、語意あるいは「二」と「こし(越し)」との関係について、必ずしも明快な説明は、なされていないようです。フェイントが一つの拍子あるいは打と数えるのは抵抗がありますが、仮に、「二」がフェイント(虚の打)と実の打のことを意味するものだとすれば、その場合は前条のタイトル「一拍子の打」を受けて、本条のタイトルは「二のこし」ではなくズバリ「二拍子の打」となるはずです。
また、もし武蔵が「こし」に(建築物の)階層の意味を持たせたとすれば、かなり迂遠な表現である上に、肝心かなめの「間」がなくなってしまいます。
一方、本条は、我方のフェイントによって敵に「間(ま)」が残るように仕向けて、その「間」を打つことに主眼があり、「間」がキーワードになっていることは明らかです。そこで写本の「二の こし」は、原本では「ま のこし(間残し)」の誤写ではないかと推定しました。つまり、「まのこし」の「ま」が横棒二本と残りの部分に分解されて「二」と「つ」に成り、さらに「二つの」の「つ」が「の」につながって「二の」となった結果、以下のようにして「まのこし」が「二のこし」となったと考えられます。
「ま のこし(間残し)」→「二つ のこし」→「二の こし(越)」
したがって、問題の箇所は、下記のように訂正されます。
まのこしの拍子の事
「まのこしの拍子。我打ださんとする時、敵はやく引、はやくはりのくる(張り退くる)やうなる時は、我打つとみせて、敵のはりてたるむ所を打ち、引てたるむ所を打つ、是まのこしの打也。」
(訳)
間残しの拍子の事
間残しの拍子。こちらが打ちだそうとする時に、敵が早く引いたり、早くパンと打ってから退こうとしている時は、こちらが打つと見せかければ(=フェイントをかけると)、敵が張ったり引いたりするタイミングを外されてたるみ(=間)が残る、そこを打つ、これが間残しの打ちである。