武蔵が名付けた 「紅葉の打」とは、紅葉が枝から静かにハラリと落ちるように、強打によらず太刀を敵の手から落とす打ち方です。


  実は、「紅葉の打」は、単独で有効な打ち方ではなく、次のように必ず、強打の打(無念無相の打、石火の打)とのコンビネーションで用いられます。 


 「敵前に太刀を構へ、うたん、はらん、うけんと思ふ時、我打つ心は、無念無相の打、又石火の打にても、敵の太刀を強く打、その儘(まま)あとをねばる心にて、きつさきさがりにうてば、敵の太刀必ずおつるもの也。」


 「その儘あとをねばる心にて、きつさきさがりにうてば、敵の太刀必ずおつる」、この部分が「紅葉の打」です。
 なお、「ねばる心」とは、「あまりつよくなき心」にて「我太刀敵の太刀に付けて」、「太刀はなれがたき心」である、すなわちあまり力を入れずに太刀と太刀とが離れないようにする心持であると、水の巻/ねばりをかくるといふ事(岩波文庫65頁3行目)に記されています。

 「きつさきさがり(切っ先下り)」とは、刃先を太刀の柄より低い位置に下げる事です。


 つまり、敵の太刀を無念無相の打や石火の打で強打したのちに、そのあと間(ま)を置かずそのまま我太刀を敵の太刀から離れないようにして刃先を押し下げていくと、敵の手から太刀がハラリと紅葉のように落ちるというわけです。


 敵の太刀を強打した場合、敵は辛うじて太刀を保持している状態となりますが、この状態でも敵が太刀を引くことは可能なので、すぐに次の強打を加えたとしても必ずしも敵の太刀を落とせるとは限りません。           また強打の後に太刀を落とすべくさらなる強打を加えようとすると、力をためようとするためどうしてもそこに間ができます。その瞬間、敵は太刀を引くために、敵の太刀を落とすことはできなくなります。

 そこで、強打の後、そのまま粘る心で我太刀を敵の太刀から離れないようにすれば、たとえ敵が太刀を引いたとしても、切っ先を下げて、必ず太刀を落とすことができるのです。これが紅葉の打ちです。


 ところで、細川家写本では冒頭、「紅葉の打、敵の太刀を打おとし、太刀取なをす心也。」と記しています。しかし、太刀を打ち落しておいて、その太刀を取り直すでは意味が通じません。この「取りなをす(取直す)」については、吉田家本などすでにいくつかの写本においては、「取りはなす」と記されているように、「取りはなす(取放す、取離す)」の誤写と考えられます。「取りはなす」とは、持っているものを手から分離する、手放すという意味です。


 そこでまず、「紅葉の打、敵の太刀を打おとし、太刀取はなす心也(紅葉の打とは、敵の太刀を打ち落し、太刀を敵の手から離れさせる打ち方である)。」であると訂正されます。 


 しかし敵の太刀が打ち落とされるのは、「太刀取りはなす(太刀を敵の手から離れさせる)。」→「太刀落つる(敵の太刀が地面に落ちる)。」の順ですから「敵の太刀を打おとし、太刀取はなす(敵の太刀を打ち落してから、太刀を敵の手から離れさせる)」では順当とは言えません。

 また、太刀が落ちるのは太刀が手から離れるためであり、敵の太刀を打落とせば敵の手から太刀が離れるわけですのでこれを単に、「紅葉の打、敵の太刀を打おとす心也。」と言っても良さそうですが、「太刀取はなす」は「紅葉の打」を説明するうえで重要な語句です。


 問題は、「敵の太刀を打おとし、」の部分にあります。この「打おし(打落とし)」は原本の「打おし(打下し)」を誤写したものと考えると、この部分は本条の後半の「きつさきさがりにうてば、」という箇所と符合します。「敵の太刀を打おろす」とは、敵の太刀を打って下に下げるという意味で、まさに「きつさきさがり(切っ先下り)」に打つことです。この誤写の訂正により、該当文は、「打ち下ろす(切っ先下りに打つ)」→「太刀取りはなす(太刀が敵の手から離れる)」と自然なものになります。そして、太刀は落下します。


 結局、写本の冒頭部分「紅葉の打、敵の太刀を打おとし、太刀取りなをす心也。」は、以下のように訂正されます。


(原本)

 「紅葉の打、敵の太刀を打おろし、太刀取りはなす心也。」


(訳)

 紅葉の打は、敵の太刀を打おろして、敵の手から太刀を落とす打ち方である。

(紅葉の打は、敵の太刀を無念無相の打や石火の打で強打したのちに、そのままそのあと我太刀を敵の太刀から離れないようにして刃先を押し下げていくと、紅葉のように敵の手から太刀が離れ落ちる打ち方である。)