今までの日本の学校教育は、境界知能の生徒を深く追い詰めてきたと思う。
学校に限らず、社会全体でも
境界知能の人は生きづらさを抱えながら、見えない苦しみの中にいたと思う
20年以上前からの、自分の経験からそう感じる。
自分は、小学1年生の頃から
うっすらと勉強や、新しい物事の口頭の説明に対して、プレッシャーを感じ始めていた。
幼稚園の頃までは物事の内容も、まだそこまで難しくなかったので分からなくても周りの子たちと見様見真似すればよかった、だからまだ何とかなっていた。
けれど、小学校に入ってからは
例えば、漢字や算数を覚えることすら、すでになんだか難しく感じていた。
ついて行けれないという部分では、
特に小学5、6年からそれは顕著になっていった
「でも、これは誰にでもある感覚なんじゃないか?」
だから自分の努力不足が原因かと思いながら
自分の中にある苦しさは学年が上がるごとに、勉強へのプレッシャーとともに増えていった。
そして30歳を超えてから境界知能というものを知ったとき、やっと腑に落ちた。
自分を含め境界知能の人たちは、平均知能の人よりも1.5倍、2倍の努力をして、
何とか学校教育についていこうと、あがいていたんじゃないかと。
もちろん、全員がそうとは限らない
勉強が得意な境界知能の子たちもいただろうけど。
けれど、傾向としてそういう子は多かったのではないかと、自分の体験を通して思う。
自分は心境的に、小学校高学年から特に
例えるなら「常に溺れかけていた」というのがしっくりくる
もう少しで沈んでしまう……
そんなギリギリのところで、何とか水面に顔を出していたような心情だった。
勉強ができなくて、先生に怒られる。
成績がよくなくて、親に叱られる。
「勉強、成績が悪い=価値がない」と言われているようで、次第に自信を失っていく。
学校の先生も親も、境界知能の存在を知っていてくれたら…
そういう理解があれば、それが浮き輪となり
もがきながら、必死に水面から顔をだして、溺れかけずに済んだのに
そしたら自分は、もう少し違っていただろう。
でも現実には、何もなかった
自分にとって学校とは、
「学校教育という名の牢獄」
もし自分に、勉強以外の自信を持てる何かがあれば、まだ救われてたんだろうけど
でも、スポーツも得意じゃない、音楽楽器や芸術にも強い関心はなかった。
唯一の興味といえば、ゲームくらいだった。
自信を持てる何かがなかった
何もかもが中途半端で、自信を持てるものがなく、劣等感ばかりが育っていった。
そして中学に入り、自分は完全に溺れてしまった。
自分を見失ってしまった
特に中学時代は、成長期、思春期などが重なってか
精神的に本当に追い詰められていて、気が狂いそうなほど苦しかった。
ただ、まだ当時(13〜15歳ぐらい)は精神的に年齢ほどに達してない感じで、
心と体の成長速度が見合ってなかった感じだし、
それに環境のプレッシャー(学校や家庭内)も相まって、上手く自分の心の状態をつかみ取れてなかった。
つまり考えがまとまってなく、自分の感情や思いや考えを、上手く言葉に表せれなかった。
そういうある種、精神的な幼さと、環境の中、流れるままに育って行った結果
中学の時の自分は、本当に言葉通り「混沌」としていた。
自分が今どういう状態なのかも、当時は分かってなかった。
苦しみを「苦しい」と認識できないほど、自分の心が麻痺していたんだと
今振り返って思う。
そういう中でも、なんとか平然を保って周りに対して取りつくろって、自分の心の状態を維持するしかなかった。
というか何がなんだか、わからない以上
そうする以外になかった
なぜなら今みたいに、境界知能も知らず、俯瞰視点で当時の状況を分析できるわけでもない
自分も周りの人も、空虚だった
だから、自分は境界知能の部分でだったけど
それぞれ色々な理由はあるだろうけど、学生で
不登校や、希死念慮を感じる子の気持ちもわかるし、
道を踏み外してしまう人の気持ちも、なんとなく理解できる。
日本の学校教育は、個人差はあれど境界知能の人たちに対して、取り返しのつかない傷を与えてきたと思う。
少なくとも、自分ははっきりと
学校教育に深く心を傷つけられたと感じている。
それほどまでに、境界知能の人にとって、日本の学校は過酷な場所だったと思う。
日本は、自国から見ても他国から見ても、まじめな部分が良いとされている
しかし、そのまじめさに考慮というものがなければ、それは責めに変わる
考慮されなければその人達(境界知能)にとって、それは狂気だ
自分が自分であるというだけで、責められる
そしてプレッシャーに駆られる。
今までの、境界知能の子たちの負のスパイラル
勉強できない=努力不足とみなされる=叱責される=その子の自信喪失
でも考慮があるならば
勉強できない=その子の学ぶペースや得意な分野を把握する=焦らさずに教える=周りのペースとは違うかもしれないが「遅くてもできるんだ」と自信をもたせる
考慮されず、学校や社会で怒られ
逃げ場がなくなり、精神的に2次障害がでる可能性がある。
ここの部分は発達障害にも、言えるだろうけど
境界知能当事者として、当時の日本の学校教育とは、狂気が宿っている場所だったと感じる
落ち着かない不安になる場所。
今思えば、大人達の狂気を感じていた
考慮がないという狂気
根性論先行で、科学的医学的ではない、まっさらな狂気
今、言いたい
文科省、教育委員会、政治家、学校の先生たちに
「よくも、子どもの心を追い詰めてくれたな」
「なぜ、そこを考慮しなかったんだ」
境界知能という存在を無視して進めてきた教育
それによって、自分の心は深く傷つき、学校生活は苦しみに満ちていた。
自分は、境界知能と斜頭の影響という、2つのグレーゾーンの間に挟まれて生きてきた。
全体像がつかめずに10代20代、本当に絶望していたし、死んでしまってもおかしくなかった。
でも、何とかここまで生きてきた
学校教育の場で、境界知能の子たちに対する人権がなかった
無理解な教育現場が、何十年と続いてた
声なき声、言葉に表せれない当事者の苦しみが
何十年と続いてたのが、この国の学校教育における、境界知能の子たちへの教育虐待だ。
宮口幸治さんが境界知能というのを、著書で世に知らせてくれたからいいけど
この方がいなかったら、あと何十年知らない内に教育現場で、
多くの境界知能の子たちが、考慮もなく苦しい思いをし続けていたかもしれない。
宮口幸治さんには、とても感謝している。
この部分を見つけてくれて、どうもありがとうございます、深く感謝いたします。