※チャットGPTサポート文
学校教育において境界知能に対するサポートが不足していることによる、弊害や後遺症について考えます。
自分は幼稚園や小学校の頃から、何かを覚えるのが苦手でした。
興味のあることは覚えられても、それ以外のことはなかなか覚えられなかったのです。
小学校1年生の頃、何をやるにしてもわからないことが多く、同級生に手伝ってもらっていた記憶があります。
例えば、勉強や時間割を書くときに、連絡帳に書き込むことすら当時は理解できず、代わりに手伝ってもらっていました。
境界知能という概念が社会全体に認識されていなかったために
すべての境界知能の子達がとは言いませんが、ケースバイケースもあると思いますが
自分のような、軽度知的障害の子と、平均知能の子の、
あいだ(境界知能)にいる子ども達は、生きづらさを感じる確率が高まるのは、当然だと思います。
学校は平均知能の子に合わせて作られている傾向があるため、境界知能の子ども達は理解するのに時間がかかり、
個人差はあると思いますが、勉強などが遅れたりわからない場合のことが多いと思います。
そのため、周りと比べたりしてプレッシャーなどを無意識のうちに感じる弊害が出てくるのです。
境界知能に対する理解とサポートが幼稚園、小学校、中学校、高校といった各段階で欠如しているため、これらの子ども達はプレッシャー、抑圧、自信の喪失、劣等感、焦燥感などのネガティブな感情を学生時代から抱く可能性があります。
自分もその一人です。
多分一定数の境界知能の子どもたちは、平均知能の子に追いつくのがやっとで、分野や状況によっては特に厳しいと感じることがあるのではないかと思います。
自分も小学校低学年から明らかに授業についていけず、特に小学校5年生頃からその苦しさが顕著になりました。
中学校に進むと、授業についていけないことがより一層顕著になり、学校に行くのが非常に辛くなりました。
各科目の成績も5段階評価で1か2がほとんどで、美術だけが唯一3をとることができましたが、それ以外は惨憺たるものでした。
中学校は自分にとって地獄でした。
なんとか中学卒業後、通信高校に進みましたが、勉強は依然として難しく、苦しいものでした。
通信高校では自分で時間割を決めて授業に出席できるため、自分にとっては多少自由度が高く、通いやすいものでした。
しかし、通信高校に通い始めて数ヶ月たった頃、授業中に突然呼吸が苦しくなり、過呼吸に陥りそうになったことがありました。
当時はパニック障害だったのではないかと今では思います。
授業があと5分で終わるところだったため、何とか耐えて、そのまま授業を終えました、その後は学校を出て近場の河川敷などで呼吸を整えました。
なぜその時に過呼吸になりかけたのか、いろいろと当時、時間をかけて振り返って考えてましたが、やはり学校に対するストレスが原因だったのだと思います。
理解できない授業を延々と受け続けることに、自分でも気づかぬうちに麻痺していた苦しみがあったのだと思います。
それがそこで爆発したのです。
結局、学校に対するストレスや授業に対するストレスが積み重なり、それが限界に達して過呼吸になりかけたのだと感じています。
その後も授業には時々出席していましたが、過呼吸になりかけた経験の恐怖心から長く授業に出席するのが難しくなっていきました。
予備校などのサポートを受けながら頑張ろうとしましたが、最終的には通信高校を退学することになりました。
自分は高校中退で中卒です。
自分にとって学校とは、とても抑圧的で苦しい場所でした。
小学校の時にはまだ友達が多少いて楽しい面もありましたが、授業は常にプレッシャーがありました。
振り返ってみると、学校教育は自分にとって自信を失わせ、焦燥感やプレッシャーを感じる場所であり、苦痛を伴う場所でした。
今の自分視点で見れば、当時の教育は境界知能の自分にとっては教育虐待と言えるかもしれません。
もし境界知能という概念が認識され、サポートがあれば、パニック障害に陥ることも、自信を失うこともなかっただろうと思います。
結局、日本の教育は境界知能の生徒に対して結果的に教育虐待を行う側面をもたらし、彼らの自信を奪ってしまう場所になっていたと今では感じています。
今の境界知能の子ども達に、同じ轍を踏ましてはならない
境界知能の子ども達に対しての理解とサポートがなければ、その子達の中にはあらぬ方向に行ってしまう子もいるかもしれない
例えば、学校に行くのが嫌になり不登校になり引きこもるようになるかもしない
学校のストレスで不良(ヤンキー)みたいになるかもしれない
各々の表現で、学校に対してのストレスを表現するかもしれない
しかしその表現をすることは、果たしてその子達の本望なのか?
学校のあり方を考え直さなければと思う。