舞台袖の扉がそっと開き

 

ひとりの老人が現れる
背は曲がり

痩せた肩からは上着がずり落ちそうだ
細く長い指

杖の代わりに差し出された手を頼りに一歩ずつ進む
不機嫌そうな顔に目だけが鋭く
眉間には深い皺が寄せられている

 

わずかな距離を歩き

ようやく指揮台に辿り着くと

介添えの手をやわらかく外し
老人はただひとりで立つ

その姿は風に立つ枯木のよう

客席が息を呑むなか
タクトを持つ右手がゆっくりと上がる

その瞬間、楽団員全員が

操り人形のように演奏を始める

 

 

その音楽はかつてある作曲家が

書き終えられなかったもの
彼は最期の日までペンを執っていた

 

だが彼の死は神の采配によるもの

それは死による救済であった

そして未完となることで

その音楽は永遠のものとなった

 

 

 

老人はその未完の曲を

何度も指揮してきた

だがその日は、彼が音楽を指揮しているのではなかった

むしろ音楽が宇宙の摂理のように彼を動かしていた
老人はもはや目の前の楽譜が

誰の作曲によるものであるかさえ忘れていた

 

楽団は老人の意思ではない、あるいは作曲家の意思でさえない音の流れに身を委ね

まるで見えない川に浮かぶ木の葉のように
その流れに運ばれていく

 

天からの光に導かれ

彼の魂は昇って行く

 

腕が下ろされ沈黙が訪れる
その沈黙はまだ音楽の一部だった

拍手の波が起こる
老人は目を閉じたまま、一度だけうなずく
 

その夜、老人は八十八歳だった
その後、彼は二度とこの国を訪れることはなかった

 

 

作曲家は今も聖フローリアンに眠っている

 

 

 

 

 

 

 

ブルックナー交響曲第9番は、未完成となることで神の領域につながる作品となった。ブルックナーは死の直前まで筆を執り続けたが、神は「死」によりそれを終わらせ、ブルックナーの意思によらず交響曲を未完のまま「完成」させた。第3楽章の終わりは、天からの光にブルックナーの魂が導かれ空の高みに昇って行くように神々しい。【読む交響曲(Kindle版)より】