旅の途中ぼんやり考えていた備忘録③


同一神が多すぎる代表、大国主大神について、冷静に考え直してみました。


大国主大神の別名は古事記曰く他に4つ。

大穴牟遅神

葦原色許男神

八千矛神

宇都志國魂神


これについて、別名というより、大国主の名を継いだ者の名と考えたほうが自然かもしれないと思いました。


初代は素戔嗚命

二代目は印旛の白ウサギで登場した大穴牟遅神

三代目は素戔嗚命のいる根の国から須勢理毘売命と素戔嗚命の神宝を現世に戻した葦原色許男神

四代目は少彦名神と旅をして国造りをした八千矛神

五代目は、神武天皇に国譲りをした宇都志國魂神


一旦、これを仮定として、美称や皮肉に書き換えられた名があることは、とりあえず気にせず進みます。


大穴牟遅神については、瀕死回数が2度あります。

神話上、本来は一人一役かもしれませんが、正直現実的ではありません。

このため、大穴牟遅も名の継承があったのではないか、と思っています。

現代では歌舞伎などで襲名というのがありますが、あのイメージです。


そのことを踏まえて、初代大穴牟遅は誰かと考えて、大穴牟遅神が、薬の知識を持っていた事から文明が発展していた大陸からの使者ではないかと考えました。


ちなみに、天照大御神が国譲り前に豊葦原の瑞穂の国へ送った使者は3人ですが、一人目は途中で高天原に戻っているので、国譲り前に豊葦原の瑞穂の国へたどり着いているのは2人です。


このことから、初代大穴牟遅神は天穂日命で、この御方が因幡の白兎に登場されたと私は仮設を立てます。





その後、八十神の度重なる襲来を受けて瀕死となり、動けなくなったところに、新たに現れ、大穴牟遅の名を引き継ぐのが天若日子とします。

これにより、天若日子が素戔嗚命の元から生大刀等を持ち帰った。というのが、大まかな流れ。

この際つけられた呼び名が葦原色許男😨

神宝どころか愛娘まで連れて逃げてますから、仕方ありません。うん。


しかしここで矛盾が。。

天若日子といえば下照姫。

あれ、須勢理姫は??となります。


下照姫は大国主大神の御子で、私の中での仮説では、天穂日命と八上姫(市杵島姫)から誕生した姫君です。うーーーん。。大分無理筋になりますが、下照姫=須勢理姫?としないと話が進ません。。


補足として、正式に大国主大神としての証を手に入れた天若日子は、その後、高天原から反逆の疑義をかけられ、命を落としていますから、神話上、神と称せない天若日子を大国主大神とはできず、初代大穴牟遅である天穂日命の逸話を全面に押し出したのが出雲大社と考えると、、あれ?なんかそんな気もする😳と思えてきます。



で、ここで更に仮説をたてます。

天若日子は素戔嗚命から神宝を受け継ぐわけですが、自分の未来をある程度予見して、このタイミングで下照姫との間に生まれた息子、饒速日尊に神宝全てを託していた、と考えました。


饒速日尊は八千矛神となり、国を発展させるのに、医薬は欠かせないと考えます。


ここで出会うのが少名毘古那神です。

私はこの少名毘古那神こそが木俣神では?と思っています。


僅かな期間となりますが、二人は力を合わせて、医薬の発展を進めますが、木俣神(少名毘古那神)は医薬の発展に力を貸すこと以外を望まず、争いの係る国造りには付き合うこともなく、出雲の地で残り人生を注がれたものと妄想するところです。





このあと、八千矛神(饒速日尊)は、いろんな方との恋物語を展開します。(国土拡大のためですが。。)

そのうちの一つとして、越後の沼河比賣との間に子が出来ます。

その子の名は先代旧事記においては建御名方神とされています。また、出雲風土記においては、沼河比賣との間に御穂須々美命という御子もいて、この御子が後の事代主大神とされている可能性は高いと思われます。


さて、医薬の発展、国土の拡大と八千矛神の活躍はとどまりません。この出来事に対し、噂ばかりが耳に入り、国を治めたという報告がいつまでもない事から高天原側は苛立ち、天若日子は自身の予見通りに反逆の疑義をかけられ、命を落とします。


この話が味耜高彦根命にも伝わります。

二人は友人関係だったとのことで、葬式に来るものの、その場で、天若日子と瓜二つと言われたことに腹を立て、喪屋を蹴り飛ばしています。


この際、下照姫がひなぶりを詠みました。


この一連の流れから、天若日子が亡くなったことが、いかに重大な事件だったかが読み取れます。


そして、ここから、話は大きく転換します。実際、大きな日本の転換期だったと考えます。


出雲風土記では、須勢理毘売命が大国主大神に対して、大和へ嫁をもらいにいこうとするのを嫉妬するという話があります。嫉妬云々は置いておくとして、この話により、出雲と大和との交流がうかがえます。

そして、この大和へ向う話と饒速日尊の天孫降臨は同じ話ではないかと思うのです。


天若日子の死をきっかけにして、いよいよ出雲の暮らしが厳しくなったことから、先に移住し、安定して土地を開拓し国を築かれていた加茂一族を頼る道筋です。


下照姫は、国譲りの出来事により、出雲から鳥取に拠点を遷したことが倭文神社のご由緒で読み取れます。

また、加茂一族の始祖は下照姫の兄、味耜高彦根命ですから、下照姫の御子、饒速日尊を受け入れる話は進みやすかったかもしれません。


一方で出雲にはいよいよ武甕槌神と布都御魂神が現れ国譲りを迫ります。対峙したのが、建御名方神ですが、圧倒的兵力差に陣を引くことになります。


事代主大神はこれをもって手打ちとして、青柴垣にお隠れになったとされますが、主力となる兵は既に大和へ移住していたと考えれば、その際、大国主大神として、出雲一帯の土地を実際に守護していたのは、佐太大神の可能性があると考えています。


佐太大神は、とんでもない御神威を放つ神様です。それは、高天原から来た一行をビビらせるには十分な、ど迫力です。

それでも戦う選択をせず、佐太大神は猿田彦大神として、瓊瓊杵命一行の道案内を行います。

佐太大神にとっても、このやり取りが高天原との繋がりを持つチャンスと捉えられたのかもしれません。

面白いのは、出雲でも大和でもなく、九州の高千穂に案内をするところです。

2つの天津神の血を引くものが、どのように、国造りを進めるのかを、遠目で見計らう狙いがあったのかもしれません。




さて、話を大和へ戻します。


味耜高彦根命の御子達が、生駒など幅広く土地を治めていた事から長髄彦とされる人物も、加茂一族の血を引き継ぐものと思われます。

ただ、長髄彦は、その好戦的なスタイルから、温和な加茂一族とは少し気質が違ったかもしれません。

頼りにもなり、不安要素でもあったと思われます。


この長髄彦の妹、御炊屋姫と饒速日尊が結ばれ、宇摩志麻遅命が誕生し、その後に、饒速日尊は命を落としています。

この際、饒速日尊の神宝を手にしたのは長髄彦でした。

この饒速日尊の死にまつわる出来事が、宇摩志麻遅命の叔父殺しに繋がったのでは、というのは以前から考えの揺るがぬ部分です。


このような経緯を経て、神武天皇側についたことから、宇都志國魂神という美称を得た大国主大神は、宇摩志麻遅命を指すのではないかと言うのが、この仮説の結論です。



出雲に行って、思いついた内容を一気に文章化したので、根拠は相変わらず乏しくて恐縮です。

そんな考えもあるのね、と軽く読んでいただければ嬉しいです。

最後までお読み頂き、ありがとうございました。