元ヤクルト監督で野球評論家の野村克也さんが死去したことが11日、わかった。
84歳だった。警視庁によると、この日未明に都内の自宅から病院に搬送され、その後死亡が確認された。
◆野村 克也(のむら・かつや)1935年6月29日、京都府網野町(現・京丹後市)生まれ。
54年、峰山高からテスト生で南海に捕手として入団。65年、戦後初の3冠王を獲得。
70~77年まで選手兼監督を務め、ロッテ、西武を経て引退。
解説者を務めた後、ヤクルト、阪神、社会人野球のシダックス、楽天監督を歴任。
優勝5回、日本一3回。
通算657本塁打、1988打点は、いずれも王貞治氏に次いで歴代2位。
プロ野球南海(現ソフトバンク)で捕手兼任監督を務め、ヤクルト、阪神、楽天でも指揮を執った
野村克也(のむら・かつや)さんが11日午前3時半、虚血性心不全のため死去した。
84歳だった。京都府出身。
野村氏のプロ野球生活は激動の連続だった。
峰山高時代は無名の存在。54年にテスト生として南海に入団した
。3年目にはレギュラーに定着。
63年には52本塁打、65年には3冠王に輝くなど強打の捕手としてチームを支えた。
大学野球の花形で華やかな巨人・長嶋とたたき上げの自身を比べ「長嶋はヒマワリ。
私は浜辺に咲く月見草だ」とたとえた名言でも知られる。
70年から選手兼監督としてチームを率い、73年にはリーグ優勝を果たした。
だが、77年に女性問題が発端でフロントの信頼を失い、シーズン中に監督を解任された。
当時、交際していたのが17年12月に亡くなった沙知代夫人だった。
南海退団後は“生涯一捕手”としてロッテ、西武でプレー。80年限りで現役を引退した。
野球解説者を経て89年オフにヤクルト監督に就任。
データを重視する「ID野球」を掲げてチームを鍛え、9年間で4度のリーグ優勝、3度の日本一に輝いた。
ヤクルトでの実績を買われて98年オフ、三顧の礼で阪神監督に迎えられた。
翌99年の春季キャンプでは、初日夜のミーティングで、
自らが執筆した分厚い教本を全選手に配り「成功は結果であって、
目的であってはならない」などの「ノムラの考え」を約1時間半にわたって講義。
チームの意識改革に取り組んだ。また、広い甲子園で機動力を生かすため、
赤星ら俊足の選手をそろえ「F1セブン」と命名するなど低迷期の阪神を変えようとしたが、
結果は出ず3年連続最下位に終わった。
01年オフ、沙知代夫人の脱税問題が浮上し引責辞任。
しかし、この3年間が03、05年の阪神リーグ制覇の礎をつくったともいわれる。
その後、社会人シダックスの監督を経て楽天監督を務め、09年に退団。
現場を離れてからも評論家、球界のご意見番として各メディアでも活躍していた。
今年1月20日には都内で開催されたヤクルトのOB総会に出席。
息子の克則楽天1軍作戦コーチが押す車いすに乗り、笑みを浮かべながら登場。
「しばらくヤクルトの優勝を聞いていませんが、なんとか今年ぜひ優勝してもらいたい。
高津監督、僕に用事ないですか?
ヘッドコーチを喜んでやりますよ」と“野村節”でチームにエールを送っていた。
◆野村克也(のむら・かつや)1935年(昭10)6月29日、京都府生まれ。
峰山高から54年にテスト生として南海に入団。
ロッテ、西武で80年まで名捕手として活躍し、歴代2位の657本塁打を記録。
65年には3冠王に輝いた。通算成績は3017試合に出場し2901安打、1988打点、657本塁打、打率2割7分7厘。
MVP5回、ベストナインは19回受賞。
監督としては70~77年に南海でプレーイングマネージャー、90~98年ヤクルト
、99~01年に阪神、社会人野球シダックス監督を3年間務め、06~09年まで楽天で指揮を執った。
データを重視する「ID野球」でヤクルト監督時代の92年にリーグ優勝、93年、95年、97年に日本一。
89年に野球殿堂入り。93年に正力賞。愛称はノムさん。
妻の沙知代さんは17年に死去。
息子の克則は父が監督時代の97年にヤクルト入り。今季は楽天の1軍コーチ。