□第二次世界大戦前後の証券市場
◆焼け跡の2つの株式ブーム
1945年に入ると、東京への空襲が激しさを増すと同時に相場も休みがちになり、東京株式取引所は8月9日を最後に閉鎖となった。
しかし15日に終戦を迎えると、兜町は世間よりも切り替えが速かった。
28日には閉鎖前9日までの受け渡し未了の精算を完了すると、その後は早くも業者間で株の店頭取引が始められた。
9月26日には大蔵省と相談の上で10月1日の東京株式取引所再開を決めたが、これはGHQが認めなかった。
GHQは先物取引が主流だった日本の株式市場をあまりにも投機的であると考えており、昔のまま再開させるつもりはなかったからだ。
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業者たちは取引所の再開をとりあえず諦め、現存する取引所横の日證会館1階で相対の店頭取引や集団取引を継続した。
46年2月17日には「経済危機緊急対策」の一環として「金融緊急処置令」が発令された。
「新円切替」「預金封鎖」と呼ばれるものだ。
小泉政権のころに、財政赤字解消のために再び行われるのではないかと話題になったものだ。
昨今の累積する国家債務の行方次第では、再び話題になることもあるかもしれない。
「金融緊急処置令」は当時の5円以上の日本銀行券(旧円)を3月2日以降は失効させるというもので、それを回避するためには現金を銀行に預金しなければならなかった。
生活分として毎月定められた金額だけが「新円」の現金で引き出しができた。
政府としては国民の預金を封鎖した上でそこから財産税を徴収し、戦中に膨らみきった国家債務の返済にあてようともくろんだのである。
また同時に、既発の日銀券を発行量の制限された新円に切り替えることによって通貨膨張を抑え、インフレの芽を摘む目的もあった。
「旧円」失効前の闇市では「旧円」「新円」2つの物価が形成された。だが、進駐軍の兵士は「新円」切替金額に制限がないことなど、この法律には当初から利用できそうな抜け穴があった。
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兜町の陳情により2月23日の大蔵省告示35号によって株式は許可制ながら預金口座から預金を引き出して買えるという特例が認められた。
つまり、世間では「旧円」の引き出しは厳しく制限されていたが、株を買って売却すれば簡単に「新円」の現金を手にすることができたのだ。
いわば合法的なマネーロンダリングである。
特に新規公募株は総括認可制で、既存銘柄個別の許可よりも手続きが簡単だったせいもあり人気を呼んだ。
5月15日の新日本興行株を筆頭に食品、鉄道、興業百貨店株などが資金調達をした。
これが戦後の最初の株式ブームである。
この株式の特例が廃止される8月10日まで、取引所もないのに株式の商いは公募株を中心に大きく盛り上がった。
この特例は不動産購入にも適用された。
銀行間オンラインもない時代である。
複数の銀行に口座を持てば、引き出し額の規制は困難だった。
まじめな国民が焼け跡の中でさらに戦争債務のつけを払わされる一方、闇市で引き出し制限の何十倍にも相当する新円の分厚い札束を抱え買い物をする成金の姿も見られた。
その後は「企業再建整備法」「経済力集中排除法案」などで各企業が整理の過程に入ったことや、労働運動が激化したことなどから、しばらくは株式に人気が戻らなかったが、
47年末からの証券民主化運動(財閥放出株式などの一般投資家への浸透販売努力)やインフレ高進から市場は反騰に転じた。
戦中に企業の配当を抑制し、株主の利益よりもお国のために生産量の増大を目指す趣旨で施行された「会社配当等禁止制限令」の廃止もあり、株の商いはインフレとともに徐々に盛り上がった。
そして49年に入るとGHQによる取引所再開の発表、ドッジ声明による経済安定化機運により、株式は戦後2回目のブームを迎えた。「取引所もないのに」である。