【投資家のための金融史 板谷敏彦】第4章
産業革命とアメリカの台頭(13)
2012.10.18 05:00
■ペコラ委員会とグラス・スティーガル法
1932年のアメリカは国民総生産(GNP)でピーク時の60%、株価は10%にまで下落し、失業率は40%もあった。
そうした大恐慌のなかで、大暴落の原因を究明するための銀行通貨委員会が開かれ、ウォール街の主役たちが聴聞会に呼ばれた。
このなかでも株式取引と利益相反に関する聴聞会は、フェルナンド・ペコラに率いられていたためにペコラ委員会と呼ばれている。
日本においても90年代末の銀行破綻を受けて日本版ペコラ委員会の設置が叫ばれたが、アメリカのように責任の所在が追求されることはなかった。
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聴聞会でのウォール街の大物とのやり取りを通じて金融界の実態が国民にさらされていくようになり、これまで自主的に運用されていた証券取引にも何らかの規制が必要であるとのコンセンサスが生まれていった。
33年に大統領に就任した民主党のルーズベルトはこう言った。
「両替商人は文明の神殿から逃げ出した。今こそ神殿を作り直すことができるのだ」
まず33年、銀行法である通称グラス・スティーガル法が定められた。
銀行持ち
株会社による他の金融機関の所有を禁ずるとともに、商業銀行が証券市場で10%以上の利益を上げることも禁止した。
商業銀行は株式や債権を扱えなかったのだが、証券子会社をつくることで対応していた。
第一次世界大戦時には軍費調達の債券消化のために特に注意を払われなかったのである。
この法律が実質的な銀行と証券会社の分離となった。
この法律で、預金金利規制と連邦預金保険公社であるFDICの設立が定められた。
モルガン商会を例にとると、投資銀行(証券会社)を選択するとSECへの年次報告書の提出を義務付けられるためにプライベート・バンクのままでいることを選択し、JPモルガン銀行とモルガン・スタンレー証券に分離した。
モルガンは設立以来これまで一度も年次報告書を世間にさらしたことなどなかったのである。
アメリカにおける銀行と証券の分離は1999年のグラム・リーチ・ブライリー法によって撤廃され、巨大化した金融コングロマリットたちはリーマン・ショック後の「大きすぎてつぶせない」の反省へとつながっていく。
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証券関係では1933年、証券法によって発行企業に関しての届け出と財務内容の開示が決められた。
これは以前から議論されていたテーマであったので業界にも違和感なく受け入れられた。
1934年の証券取引所法は、発行市場を扱った33年証券法に対する証券流通市場に関しての規制である。
ここで一番重要なポイントは証券取引員会(SEC:U.S. Securities and Exchange Commission)の設立だ。Securitiesが33年証券法を、Exchangeが34年証券取引所法を、それぞれあらわしている。
これまで金融コミュニティーによって自主運営されてきた取引業者たちはすべからくSECに登録し、国家の管理下に入ることになったのである。
コーポレット・ガバナンスの分野では、アドルフ・バーリとガーディナー・ミーンズが1932年に発表した「近代株式会社と私有財産」という著作が証券関連法に大きな影響をおよぼした。
第一次大戦後のアメリカの株式保有構造は、以前の何人かの大銀行家たちから1000万人の投資家層に裾野が広がった。
会社経営は株を持たないエージェントである経営者によってなされるようになり、依頼人である株主との利害を離れ暴走する危険があることを示した。
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この研究をもとに33年証券法および34年証券取引所法は、正確な情報開示により株主に報告を行うことや取締役の受託者責任が明示することを定めた。
現代においても、SECウェブサイトの企業財務情報開示システムであるEDGAR(Electronic Data-Gathering, Analysis, and Retrieval system)は「1934年証券取引所にのっとり」と明記している。
日本のEDNETはこれに倣っている。
この後、
1938年には業界自主規制組織としての全米証券業者協会(NASD)が設立され、
39年の信託証書法では債券発行時の担保すり替え事件を経て債権証書のフォームが定められ、
40年の投資会社法、投資顧問業務法と、今日に至る各種の法整備がなされていったのである。
(第4章おわり)