【投資家のための金融史 板谷敏彦】第4章 産業革命とアメリカの台頭(10) | 人生の水先案内人

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2012.10.13 05:00

 ■第一次世界大戦と有価証券の大衆化

 

チャールズ・チャプリンの64番目の映画は1918年の秋に彼の自腹で制作された「The Bond」である。


これは第一次世界大戦時の米国の軍資金である自由公債を販売するためのプロモーション映画だった。

 

チャプリンは最後に「Liberty Bond」と書かれたハンマーでドイツのウィルヘルム皇帝らしき人物をたたきのめすことになる。


アンクルサムの登場するアメリカ・バージョンに加えてジョンブルの登場するイギリス・バージョンもあった。

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第一次世界大戦は1914年7月28日に始まり4年後の1918年11月11日に終了した。


米国の株価は開戦の直前まで、これが全欧州を巻き込むような大規模な戦争になるとの見立てを織り込むことはなかった。


ダウ・ジョーンズ株価指数は、当時の人々が「戦争など起こるはずもないと信じていた」ことを示している。


ダウは7月30日に突然7%ほど下げると翌日から休場となり、年末の12月14日、そこからさらに21%も下落して再開された。

 

第一次世界大戦が勃発すると、まず英仏を中心とする国々が20億ドルほどの外国債をニューヨーク市場で募集した。


これはウォール街が潤うと同時にアメリカが債務国から債権国へと変貌するきっかけとなった。


国際金融の中心は第一次世界大戦をきっかけにロンドンからニューヨークへと移動した。


この後ロンドン市場が国際金融市場の中心として再び復活するにはユーロ・ドル(米国以外の銀行に預けられた米ドル預金)が誕生するまで待たなければならなかった。

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第一次世界大戦は金融市場、とりわけウォール街のビジネスのあり方にも大きく影響を及ぼした。


米政府は外国政府の債券以外にも自由公債を210億ドルも発行したが、チャプリンを始めとするスターたちが先頭に立って「愛国心に訴え」るセールス・プロモーションを行った。


ウォール街にとって外債と違って自由公債からの実入りは少なかったが、これを機会に証券の大衆化が一気にすすむことになった。

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17年時点での投資家人口は35万人程度と推測されていたが、自由公債が100ドル単位に小口化されたことや、利子への非課税処置もあり19年には1100万人もの国民が自由公債を購入していたのである。


また12年時点での投資銀行協会の会員数は350社だったが、リテール・ビジネスの隆盛によって戦争終了から10年後の「熱狂の20年代」の終わる29年には6500社にまで達するのであった。

 

戦後のベルサイユ条約に臨んだウィルソン大統領はモルガン商会の人材を多く連れて行った。

 

「平和会議にあまりに多くのモルガンの関係者が出席しているので、このショーの立役者はモルガン関係者のように見えた」とまで言われたが、

当時のモルガン商会の番頭格であるトーマス・ラモントをはじめ、投資銀行にはグローバルなビジネスを知る優秀な人材が多く、共和党、民主党にかかわらず政治家に対して助言するようになっていた。


政治は外債発行を通じて培われた投資銀行家の持っていた人脈をも頼ることになったのである。

 

投資家層が大衆にまで広がり、金融業者は政治と接近し、時代は成金たちが跋扈する「熱狂の20年代」に入っていく。