【投資家のための金融史 板谷敏彦】第3章 金融商品と取引所の成立(11) | 人生の水先案内人

人生の水先案内人

全国の倒産情報をいち早くお伝えします。

2012.8.29 05:00

■すずかけの木の下で

 南海会社事件のころのアメリカは英国の植民地でまだ取引所はなかった。


ようやく1752年にはマンハッタンに取引所らしきものができたが、そこでは奴隷やとうもろこしの売買をしていただけで、会社もなければ国公債もなく、そもそも取引すべきものがなかったのである。

               ■     □

アメリカに証券市場が産声を上げるのは独立戦争(1775~83年)の最中である。やはり戦費調達のための新連邦政府の債券が当初の商品だった。


独立後の1790年代には295の特許会社が設立され、1792年3月には定期的に株式売買の立ち会いがもたれるようになったが、当時の取引はオークション形式で競売人の裁量が強すぎ、ブローカーたちとしては面白くなかった。


そこで同年5月17日にウォール街68番地のすずかけの木の下でブローカーたちが集まって競売人を排斥する協定を結んだのである。


これを「すずかけの木協定(Buttonwood Agreement)」と呼び、24人の

ブローカーのサインと住所の記載された協定書が今も残っている。


この協定書の歴史的な意義は、ニューヨークではじめて取引所の前身となる

団体が発足し、彼らは仲間内以外とは取引しないことを決めたこと。


そして最低手数料を約定代金の0.25%と決めたことにある。


要するにこれはギルドであるが、王や政府から認可を得たものではなかった。


この手数料率は以降改定があったものの、5月に協定が成立したことから「メイ・タリフ」と呼ばれ、1975年のアメリカの委託手数料自由化まで使用され続けた。


実務的に言えば米国株の海外取引の手数料は80年代まで、メイ・タリフを基準にした割引率で決めることもあったし、自由化されていない当時の日本からのアメリカ株の委託取引では、このタリフをそのまま使用していた。


手数料の自由化は証券会社の経営を困難にするとも考えられたが、その後をみればわかるように、米国ではそんなことはなかったのである。

               ■     □ 

ブローカーたちはこの年、取引所をウォール街22番地からウォール街とウオーター街の角のトンティン・コーヒーハウスに移した。


この時期には連邦債と州債の商いはすでにあったが、株式の注文はほとんどなく、ブローカーたちは証券業だけでは食べてはいけなかったから、宝くじや他の物産も扱っているのが普通だった。


アメリカもイギリスと同じように会社制度における無限責任の問題があった。


特許会社設立時には無限責任の覚悟を決めた出資者を集められたとしても頻繁に売買されるようなしろものではなかったのである。


1812年にニューヨーク州で最初の有限責任の会社が認められたが、この制度が普及したといえるのはようやく1850年ごろになってからであった。


1812年には対英戦争があり戦費調達のための連邦債が発行された。


このころはまだフィラデルフィアのチェスナット街がウォール街よりも取引が多かったが、1819年に5大湖地方とニューヨークをハドソン川で連結するエリー運河が開通すると穀物の大量輸送が可能になり物資が輸出港であるニューヨーク市に集積するようになった。


1822年に運河株がブームになると、イギリスにおいて対米投資が盛り上がりを見せるようになった。


その投資の玄関口にはウォール街が選ばれた。


英国の名門ベアリング商会でもパートナーのうち1人か2人はアメリカ人を採用するようになったし、ライバルのマーチャント・バンカーであるロスチャイルドも1835年には代理人をアメリカに送りこんできた。


取引所はトンティン・コーヒーハウスを出た後、頻繁に場所を移動して、現在の場所にNYSEが建設されたのは1903年、日露戦争の1年前のことだった。