2012.8.15 05:00
■蘭と英の東インド会社
1580年にオランダと敵対するスペインがポルトガルを併合すると、それまでポルトガルからコショウを調達していたオランダは、自らコショウを調達すべく船団を組み直接アジアに送り込んだ。
この航海が成功して喜望峰経由で直接コショウ貿易が可能なことを証明するとイギリスのレヴァント会社のメンバーに衝撃が走った。
この会社は中東経由でコショウ貿易をしていた。
間に入るイスラム教徒に高いマージンを支払う必要があったが、それが喜望峰ルートなら、払わずに済むようになるのである。
レヴァント会社のメンバーはエリザベス女王に特許を申請すると、1600年末には218人の出資者により6万8000万ポンドを集め5隻の船団を仕立てた。
特許は15年間の東インドでの貿易独占許可だったが、出資は1航海ごとの清算で、有限責任の概念はいまだなかった。
1回目の航海が成功すると、出資者は200ポンドを次の航海にも出資するように求められた。これが英国東インド会社である。
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一方、先にアジアとの直接交易が可能なことを示したオランダはイギリスに少し遅れて1602年に東インド会社(VOC)を17人の発起人によって650万ギルダー(10ギルダー=1ポンド)の資本金を集めて設立した。
イギリス東インド会社の10倍の規模である。
イギリスの東インド会社が1航海1事業として毎回の出資であったのに対して、VOCは21年間のすべての航海をひとつの事業とみなした点が、今日の永久資本制と呼ばれる継続性のある会社に近かった。
さらに株主は有限責任であると明記されていた点も現代の株式会社の始祖としてふさわしかった。
この継続性と有限責任のおかげでVOCの株式は売買が容易になり、1610年にはVOCの近くにアムステルダム証券取引所が設立されることになった。
VOCが世界初の近代的株式会社である以上、アムステルダム証券取引所が世界初の株式取引所である。
当時の1人当たり実質GDPはオランダが最も裕福で2175ドル、イギリスが1440ドルだった。
当時の最強国スペインが1370ドル、ポルトガルが1175ドルで、オランダはいまだにスペインから独立していなかったのにもかかわらず、である。
オランダはもともと民間による干拓事業によって国王の領地ではない土地持ちの富裕層が発生し、イギリスに比べて民間の投資資金が豊富にあった。
イギリスはいまだその弟分みたいなもので、コショウ貿易ではオランダに先を越され、後にインド経営に集中していくことになる。
しかし一方でオランダは、当時もうけの多かったコショウ貿易に固執しすぎたために、やがて1667年の第2次英蘭戦争の際にはマンハッタン島を手放し、東インドネシアのナツメグの産地でしかないルン島をイギリスと交換するはめになってしまった。
イギリスがVOCの成功を傍観していたわけではない。
1600年以降、オランダと同じようにコショウのあるインド、ジャワやスマトラ方面へ、喜望峰回りで毎年艦隊を送り1611年の10回目の航海では1航海で148%の利益を出した。
そして翌年からはオランダのように出資を1航海に限定せずに複数回に移行することとし、何度も株式の売り出しを行い会社の規模を大きくした。
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こうして会社に永久資本制が付与されると株主総会が開催されて24人の取締役が選出された。
総裁と副総裁は会計、購買、通信、船舶、財政、倉庫、私貿易の7つの専門委員会を通じて業務を行い、海外駐在員をファクターと呼び、大株主の師弟をあてて取締役会が厳しく律したのである。
現代の企業組織の大枠をここにみることができる。
1662年には株主が有限責任化。
1680年には50%の配当を支払うようになり、1662年に出資した株主が1688年に株式を売却すれば1200%の利益があった。
はたして東インド会社の社員や株主といえば、当時のイギリスでは成金と同意語になったのである。
しかし残念ながらイギリス東インド会社の1690年代以前の株価データはあまり残されていない。
イギリスにはいまだ証券取引所がなく、株式はまれにしか取引されなかったようだ。
一方でVOCは1632年に12.5%の配当を実施すると、1652年から88年の間に680%のリターンを出している。
オランダの有名なチューリップ・マニアはこの間に発生したのだが、イギリス東インド会社にはおよばずとも、VOCの方も着実に成長していたのである。