【投資家のための金融史 板谷敏彦】第2章 中世 西洋と東洋の分かれ目(1) | 人生の水先案内人

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2012.7.21 05:00

 ■利子徴収が罪とされた時代

 西洋史における中世とは、5世紀のゲルマン民族大移動による西ローマ帝国の滅亡から大航海時代の始まる15世紀末までである。

 

4世紀前半にイスタンブールを東の首都と定めたコンスタンティヌス帝は同時にキリスト教をローマ帝国の国教とした。


東ではビザンツ帝国が中世の終わりまで生き延び、西ではローマは滅びたもののキリスト教が広まっていった。

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 「あなたが、共におるわたしの民の貧しい者に金を貸すときは、これに対して金貸しのようになってはならない。


これから利子を取ってはならない(出エジプト記22章25節)」。


また、「利子は財そのものが産んだものではなく、時間が産んだものである」。


時間は誰のものでもなく神のものだった。従って中世のキリスト教では利子を徴収することは罪だと断じた。


そのために中世ヨーロッパでの利子の記録はあまり残ってはいない。

 

325年ニケーア公会議では聖職者の融資活動の停止、850年には金貸しを破門。


キリスト教徒が集う公会議においてこうした徴利禁止問題は永年にわたりテーマとなり続けた。


しかし、これらの現象は逆にいえば、利子を徴収する行為はなかなか止められず、中世のどの時代においても問題であり続けたということである。


利子を支払ってもお金を借りたい人がいた。


教会は次第にこうした世俗的な欲求と教義との間に折り合いをつけていくことになる。

 

例えば1215年の第4回ラテラノ公会議では「重く過当な金利」が議題となったが、債務返済の遅延のペナルティーとして徴収する利息は公正報酬であるとの考え方を示した。


こうして利子徴収の名目は次第に整えられ、一方でそうした罪から逃れ天国へ行ける免罪符も販売されるようになった。


一族に司祭が一人出れば食べていくのには困らなかった。


こうした動きに対する抵抗が、マーチン・ルターの宗教革命に結びついていく。

 

中世の地中海の交易ではコショウと並んで奴隷が主要な商品だった。


奴隷貿易は新大陸発見後も続けられ1807年にイギリスが禁止し1863年にオランダが禁止にするまで続いた。


高利貸が悪徳であるならば奴隷商人はどうなのか。


キリスト教では「肉体を束縛することは精神の救済に役立つ」とこの問題に


折り合いをつけた。


従ってキリスト教化されていない者は束縛の対象となった。


ローマ・カトリックから見ればイスラム教徒はもちろん、ときとしてギリシャ正教徒も対象であったし、6世紀には教化前のアングロ・サクソン人も、その後はスラブ民族も救済されるべき対象だった。


スラブは奴隷の意味のスレーブが語源である。

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 ロスチャイルドなどユダヤ財閥について語られるとき、あるいはシェークスピアの「ヴェニスの商人」が話題になるときに決まって持ち出されるトリビアがある。


なぜユダヤ人が高利貸で守銭奴であるか、もう少し大げさな陰謀論になると、なぜ彼らが世界を支配しているかについて、中世キリスト教の徴利禁止問題が取り上げられる。

 

いわく、ユダヤ教でも金貸しは禁止されていたが、旧約聖書申命記23章には「外国人からは利息をとっても良いが同胞からは取ってはいけない」とあるからだとされている。


従って中世ヨーロッパにおいて少数民族であったユダヤ人は同胞以外の人々から縦横に利息を徴収でき、それが理由で金融業において支配的になったというものである。

 

確かに逆に地中海イスラム圏での銀行家の多くはキリスト教徒だったとする説もあるのだ。


街の高利貸にはユダヤ人が多かったかもしれないが、フィレンツェのメディチやドイツの銀山を支配したフッガー、インホーフ、ウェルサーなど中世の大規模金融家は実はほとんどがキリスト教徒なのである。

 

中世キリスト教の徴利禁止問題の実質は、一般のお金の貸借が主題ではなく、「高利貸」の話と理解しておいたほうが良いだろう。