本日1記事目



母が待合室を見回して言う。



「お母さんくらいしか付き添ってもらってるいない。お母さんはアンタに甘えてるよの〜」


「次からはあの人たちみたいに一人で来ないと」



母の黄斑変性の治療で

眼科に付き添った。



病院内は、

みんな母世代で溢れてる。


みんな杖をつき

背中が曲がって

見えにくい目を持ち

ゆっくり歩いている。



そんな中で、

10人くらいの患者さんがいたうち、

2人が付き添いがいて

わたしと、もう一人は他人でヘルパーさんらしかった。


元気そうな隣のご婦人が、治療が終わった母に

白内障はやりましたか?ときき、

マスクはしたのか?

どのくらいで終わったか?

痛くなかったか?


娘さんですか?いいわねえ。


と話しかけてきた。



手術受けるんですか?

心細いですよね?


と返したら 


そうなの。

心配で不安で怖くてさ、

心細いのよ。


いいわね。娘さんがついてきてくれて、ほんとうに。


と、今にも泣きそうである。



手術室の前は皆が着替えて

看護師さんに質問したり

不安伝えたり。


終わって帰ってくる親世代の男性やご婦人に、

がんばってるね。といってあげたくなる。


病院や検査や、まして手術なんて、

わたしからしたら付き添われようがハカハカする場所なんだから。



悠々そうにみえる人も

母に話しかけてくれたご婦人のように心細いのかもしれない。とハカハカメガネをかける。



がんばった、がんばった、と母と手を繋ぐ。


母もがんばった、と自分を讃える。


あんたに迷惑かけて申し訳ない。と言う母だが、

わたしは、わたしにできることがあるのが嬉しい。



母はこうして、

目にも限りがあることや

体のあちこちは機能が衰えても

健やかに生きられることを証明してくれる。



今日は足が痛くて動けない母に肩を貸し、手を引いて整形外科。


昨日眼科の2階に上がる階段が急で、登ったはいいが

帰宅後、ひざに炎症が起きたのである。


またまた、アンタに迷惑かけちゃうね、と言う母に


はて?となる。



確かにわたしはキャパなしでパニックもちで

人の世話する余裕がない人間だけど、


実は娘の話をずっときいたり

夫に食事を作ったり

母に付き合い病院にきて


自分だからできる、

安心や勇気づけをするサポートに生きがいを感じている。


自分がしたことで

誰かに喜ばれる。


それがわたしも生きる意味を見出してるのである。



でも、関わる人により

わたしの満足や生きがい違ってる。


例えば父の場合、わたしが生きる意味を見いだせたのは

父を人生ごと肯定する愛情をかけたことであった。


わたしには負担になる介護は、施設にお任せし

わたしは父からしてもらった愛情を会うたびに伝えた。

これが父へかけたわたしからのサポート愛であった。


膝が痛くて、

痛み止めをのんでも夜中に眠れなかった母は


珍しく泣き言をいい、

病院でレントゲンをとり


診断は膝の軟骨がすり減ったことによる「老化」


ああ、安心したね。

骨折でもヒビでも、水が溜まったでもない。

ただの老化。


母は同じ痛みでも帰りはもう治ってるとふとじ。(ふとじは、同じの意味)


人と関わることは

こうしてわたしができることも教えてくれる♡


ご飯を作っただけで夫に

こんな短時間でよくできるね、と驚かれ、喜ばれたよ♡











Meg.