本日2記事目

18日12時から募集






コロナになって、

唾を飲めることや

食べられること

健康のありがたさをしみじみ痛感している。


パニック症のおかげで

玄関を出て外出したり、

電車やバスに乗れること

仕事をすることはすごいことだと思っているし、


息苦しさや予期不安がない日常は何より尊い。



母が歩いてトイレに行ける。

それにありがたいと感じるのは、

母が骨折で動けなくなったことがあるからである。



そして、

時々、自分を大切にしてくれないような

気持ちをぶつけてくる人に会うと


モヤンとした嫌な気持ちに支配される時。



ああ、なんて今まで優しい人たちに囲まれていたのだろうか、と感動する。



わたしの言動の背景を愛情で想像して、言葉にして声をかけてくれることは


当たり前ではなく

努力や積み重ねの賜物だと気がつく。

そんな人間関係は幸せの頂点ではないのか。



わたしは、

幸せに気が付きにくい時


ギフトのように

絶望や困難や乗り越えられないような壁を用意され


当たり前だと思ってきたことが

いかに恵まれて幸せだったか?と気付かされる。



夫が家を留守にすれば

夫の存在がなんと頼もしいかと気がつき


母が動けなくなれば

母の命があるだけでいいと思い



娘が熱を出せば

勉強や人間関係や評価や外見や色んなことは気にならないのだ。



わたしにパニックを与えられたわけをよく考えていた。


そして毎回答えは

ありとあらゆる生活のささやかな幸せを忘れやすいから。

なのだ。



親子関係に絶望しかなかったわたしは、


人間関係は愛情や親切に溢れ、

人は優しく助け合っていいと教わる。


幸せの裏側にある陰には、

こうして気づかせるヒントがいくつもある。



工事中の家からは朝日や空や鳥や夕陽が見えない。

カーテンを閉めたリビングには光が差し込みにくい。


数ヶ月先、足場が外れた頃

また夕日や光や静けさに感動する毎日を楽しみにとっておく。







Meg.