最近散歩を日課にしてる

ラジオ聴きながら歩いてたら約10キロも歩いてた

一周1.1キロのドブ池公園を永遠とアントのように歩いてた


宿のシャワーが水でダラムシャーラはインドにしては結構涼しいとこだから毎回凍えながらでっかい声出してシャワーを浴びてた。水で頭洗っても全然すっきりせんのよ汚れ落ちんから。


日記を見返したらこの村をたつ前にパスポートの申請やら夜行バスのチケットをがんばって手配してたらしい。ていうのもこれから向かうマナリー、レー、ラダックはインドの最北端にあたりチベット中国と国境を察してる場所で国際状況に明るい人なら勘づくと思うんだけどきな臭い場所なんだよ。ゴリゴリにインド軍と中華民族解放共産党軍が四股踏み合ってる地域なんだよ。カシミールとかあるとこ。とにかく危ないから自己責任であと反社じゃないってことの証明でイミグレーション許可を取らなかんといけんかった。


下山してからは行きつけのトマレストラン(全然覚えてないけどたしかチベット人のやってた激安食堂)とチャー坊のチャイ屋を往復してた。この時期はやること無さすぎて瞑想をしてたらしい。きっとチベット仏教にあてられたんだろうか、お寺が沢山あって嵩山少林寺の如くみんな修行してたし。




帰国後一年経ったのちヴィパッサナー瞑想を会得すべく京都の山に10日間篭ったりもしてました。そんときの経験も中々珍奇だったのでもしこれ見てくれてて気になる人いたら僕に聞いてください、それかまた書きます

一つわかったことは脳みそで麻薬は作れます。これは本当です。えもしれぬ暖かさと快感でチャクラが光ります。ですがそれと引き換えに社会生活とコミュニケーションを捨てなければいけません。そして頭の中の宇宙を永遠と彷徨い続けます。光が見えては消えて、わかった気がしてはゼロに戻り、思い出したように壮絶な空腹に苛まれ、人恋しくなり



あかんそうじゃなくて

いよいよこの村を出ようと手配を済ませ最後にバイキングを食べに行きました

店にはチベットの坊さんが沢山いて僕が入ってシステムにまごついてるなり、これがおいしいよ、とかここ座りなさいとか何言ってるかわかんないけどにこにこ料理の説明してくれたり馬乳茶もってきてくれたり、彼らの愛に包まれながら美味しい食事を楽しみました。

今でも思い出せる程みんなにこにこ優しくしてくれてとても中華民族解放平和戦線軍に国を追われた人たちとは思えなくて、尚且つその優しさがじいちゃばあちゃんのような愛の優しさで性悪説に斜に構えていた当時の自分を呪ったのを思い出した。


チベットはいまだにダライラマ跡継ぎも拉致られたままで国もぶんどられて自分だったらとてもじゃないけど人にやさしく生きる余裕なんてないと思いました


夜の10時頃だったかなぁ

村のバスターミナルに行ってマナリー行きの夜行バスを待ってました。中々来んなぁとかインド例の如くどのバスかわからんなぁと待ってたら行き先同じの禿げたクリントイーストウッド爺ちゃんが話しかけてくれて、僕は日本からだよ、わしはシアトルからだよと自己紹介しあって。シアトル出身ならと思わずカートコベインの出身地だねって言うと、ジミヘンもおるがなって言ってくれて、てかおまえさん日本人なんだろ?何か大事なこと忘れとらんかって言われたもんで、え?なんかあったっけなぁなんて考えてると、

バット前に構えるポーズとって、イッチロー。とおっしゃられた。あちゃまぁーとそうだったぁ、と照れた顔作ってわちゃわちゃしてたらマタタビをお裾分けしてくれた。しばらくすると爺さんの奥様が戻ってきて、あら友達できたのなんて笑いかけてくれて売店で買ってきたクッキー食べたりしてたらバスが来た。


まったりとバスに乗り込むと前列の方で日本語が聞こえてきた。年上そうなお姉さん2人の声だった。

きたぁ次の街のこと何も知らんし宿もないし人恋しかったから甘えよー、でもこんなところまで来るんだから仲良し二人組だよなぁ邪魔しちゃ野暮だよなぁなんてsweet dreamみてんだまだそんときは


to be continued