ふんわりシフォン -85ページ目

蛍 3

まわりはすっかり闇のなかで、背の高い瀬波さんと、わたしとホタルしかいない。

放流したという川をみれば、ちかちかとホタルが瞬き出していた。



「綺麗ですね」

「そうだね」



なんだか、またぎこちなくなってしまう。

こんな暗い場所に二人きりでいるなんて、なんだか危ないんじゃないか、とか。
でも瀬波さんはそんな人じゃないよね、とか。



瀬波さんはどんな人が好きなんだろう。

きゅっと胸が苦しくなる。


「高瀬さんね…支柱立ててくれたよね」

「あ、風船かずら。あれ瀬波さんのですか」

学部棟の入り口に、風船かずらがあって、好きな花だったから支柱を立てたり水やりもしていた。



「あなたのこと、気になってた」



ドキドキと胸が痛くて、なんだか呼吸まで上手くできない。



「俺と付き合ってくれませんか」



瀬波さんが、まっすぐ私を見てる。見つめられるだけで、こんなに苦しくなるのは瀬波さんだけ。



「ホタルは一週間しか生きられない。だけど人間だって、いつ何があるか分からないよね。地震があって、つくづくそう思ったよ。好きな子はきちんと捕まえておかなくちゃね」



「私でいいの」

「あなたが いいんです」



瀬波さんの手の平が、頬に触れた。頬をなでて、親指が唇をなぞる。



「そんなに見つめられると、キスできないんだけど」


「え…そうだったの」



胸も呼吸も苦しいのに、幸せでめまいがしそうだった。

目を閉じると、ふわっと瀬波さんに包まれた。

やわらかくて、あたたかな唇が触れる。唇を吸う音がちゅっちゅっと聞こえて、初めてキスしてるんだと思った。

瀬波さんに抱きしめられて、こわくて幸せで白衣にしがみついた。



息ができなくて、苦しい。身じろぎすると、気がついたのか瀬波さんが唇を離してくれた。



「すっげえ嬉しい」

そう言って、ぎゅっ抱きしめられた。瀬波さんの胸に顔をうずめて、私も幸せだった。



「教授が言ってた。ホタルが縁を取り持ってくれるって本当だった。

ホタルの世話をしたら、彼女が出来るってジンクスがあったんだ。でもそんなの嘘っぽいよね。教授の作り話だと思ってた

だから高瀬さんとここで会ったから、きちんと言わなくちゃって思ったんだ」



腕のなかの私を見つめる目が優しい。照れながら、頷いた。

「俺もホタルみたいに恋するために脱皮しないと」



脱皮というセリフに白衣を脱いだ瀬波さんが浮かんだ。


これからは、白衣じゃない瀬波さんにも会える。

季節を追って、思い出を重ねていけるように。

蛍 2

きゅうっと胸が締め付けられる。なんでこんなに、はにかんだ笑顔がいいんだろう。

「この川は教授の趣味で、蛍を放流するんだよ」

「いままで何年も、この学校に在籍していたのに、初耳だわ」

「教えてないんだよ。世話は俺まかせなんだから」

にこっと笑って示した先には、網を張ったケースがあった。

「毎年、哀れな学生のなかから、教授が世話を任せる奴がいるんだ。そのケースは繁殖用に雄と雌を入れてあるんだ」

薄暗くなってきて、よく見るとちかちかと瞬く豆粒程の明かりが認められた。

「昨日、放流したんだ。今年見るのは、あなたが最初だよ」


背中越しに聞こえる声が、少し掠れて聞こえた。

「私、蛍は初めて。凄いほんとに光るのね。もっと大きいと思ってた」


すっと隣で、目線を合わせるくらいに屈んだ瀬波さんにどきりとする。

顔が近い。ちょっと動いたら、腕に触れてしまいそう。

「見てごらん、これは平家ホタルなんだけど、一般的なホタルは源氏ホタルを指すんだ」

「何が違うんですか」

「名前。なんてね平家ホタルのほうが、源氏ホタルより一回り小さいんだ。源氏ホタルはカワニナしか食べないから、タニシも食べる平家ホタルのほうが飼育しやすい」

「カワニナって何ですか」

「カワニナもタニシも巻貝の一種で、昔はたんぼにいたそうだよ。農薬を使うようになってからタニシもホタルもいなくなったんだ」

普段より、よく話してくれるのは、得意な分野だからだろうか。耳元で聞こえる瀬波さんの声が心地好い。



「ごめん……こんな話はつまんないよね」

「そんなことないですよ」

慌てて瀬波さんを見ると、ちょっと考え込むように、口元に手をあてていた。

もっと声が聞きたい。

「瀬波さんの育ててきたホタルですもの。もっと知りたいです」

言ってから、瀬波さんのことをもっと知りたいという意味にもとれると気がついて頬があつくなる。

暗いから、分からないかもしれない。それでも恥ずかしくて、ごまかすようにまた口をひらいた。

「みんな光ってますね。雌はどこかに隠れているんですか」


瀬波さんは、ははっと笑って答えてくれる。

「ホタルはね、雌雄両方が光るんだよ。雌は葉にとまって雄を呼ぶんだ。雄は光りながら飛んで雌を探すんだ」


瀬波さんの長い指が、雄の飛んだ跡をなぞる。

「雌雄の違いは、腹部の発光器の違いで見分けることができる。雌は一節、雄は二節発光器があるんだ」

「それで、オスメスを見分けてここに入れたんですか」


「そうだよ。点滅の仕方も違うけどね。蝉もそうだけど、ホタルも成虫になったら短い間しか生きられないからね」



「恋するために光るんですね」


「相手を探して光るんだ」

太陽が沈んで空の色を茜色に染める。今日の雲は折り重なるように何層にもあって下からの残照を受けて輝いていた。



書類もレポートも山積みだけど、手を休めて窓から夕暮れを見るのが好きで、マグカップ片手に一息ついていた。



窓から外を眺めていると、長身の白衣が裾をはためかせて建物を横切っていった。

あ、瀬波さんだ。

少し長くなってしまった髪が大股で歩くにつれ、揺れている。

そこそこ美形でありながら、研究室にこもっているため、近づきたくても近づけない隠れファンは多いらしい。



何処にいくんだろう。考える時の癖で頬に触れて、やっぱり考えるより行ってみようとポケットにお財布を入れて席を立った。



建物を出て瀬波さんの歩いて行った方向に足を向ける。



外に出ると夕闇が落ちてきて、空は深い藍色へと色を変えていた。

熱の残る建物より、風のある外のほうが涼しくて深く息を吸い込んだ。

建物の影には農学部の果樹や畑があって、緑の匂いを滴らせていた。吸い込むと自分にも緑の風が肺に入り込み、体を緑に染めていくようだった。



見当をつけて涼しげな用水路に沿って歩いていく。農学部の農業用水を賄うために、地下水脈から汲み上げた水は、潔いほどに冷えていて勢いよく流れていく。


学部の書かれた籠に名前を書いたビールやきゅうりが浮かんで、川で冷やされている。

もう少ししたら、トマトや西瓜も仲間入りするだろう。

ちゃぷちゃぷと水を受けるさまは、どこかのどかで見ていると楽しい。



瀬波さんも、どこかの籠に自分だけのお気に入りを眠らせているのかもしれない。

水面を見ながら、川を遡ってきたけれど、こんな所をうろうろしているなんて、なんだか籠の中身を物色しているようで、誰かに見られて問い詰められたらどうしようかと不安になる。

何も持ってはいなくても、物色していただけという事もある。



瀬波さん探しは止めて、帰ったほうがいいのかもしれない。

段々と木々は密になり、明かりのない暗闇が深くなるにつれ不安がつのる。



不意に草を分ける音がする。


「きゃああぁ」

不安になって、怯えていた私は思わず声をあげてしまった。

ドキドキしながら振り向くと、びっくりして目を見開いた瀬波さんだった。

「高瀬さんか…驚いた」

「ご…ごめんなさい。野犬かなにかだと思って」

瀬波さんは、ふわっとした笑いを浮かべる。

「野犬というよりタヌキかと思った。いるんだよ、ここ」


私、タヌキと間違われたのね。


「タヌキは夜行性だし、雑食だからね。美人なタヌキだったよ」

そう言って、はにかむように笑った。