花火とお年玉 | きょうだい児で、毒親育ちで、バツイチです。

きょうだい児で、毒親育ちで、バツイチです。

柴田真帆と申します。
アンジェルマン症候群の兄様がいて、
過保護・過干渉の毒母を見送り、
モラハラ&パワハラ夫を捨てました。

 

毒母の妄言に騙されてやりながら

弁慶(わっち)の立ち往生。

 

もうね、四方八方から弓矢が飛んでくる感覚だったね。

過去形で言えている今、最高。

 

かくして、大々的な断捨離と毒の掘り起こし作業、

家の名義変更を終えて

ふと思いついた。

 

毒母の、あの猛毒の数々と

それに対するわっちの心境やセルフケア

大学ノートやルーズリーフにまとめたものを

読み返して

 

「これって…ネタになるんじゃない?」

 

と思った。

ネタというと何だか品がないが

この広い世の中で、似たような経験をしている人が

絶対にいない、とは言い切れない。

 

もしかしたら、どこかの誰かの一助に

なれるかもしんない。

 

たとえ一助とまでは行かなくても、

自分の方がマシ、だとか

この程度で大袈裟な、とか

比較対象としていただくことで何か少しでも

読んだ方の「足し」になれれば、と思った。

 

というわけで、このブログを始めるに至る。

 

わっちが書き起こした毒母の暴言の数々や

毒母の行為については、

#毒母暴言集

#毒母の行為

としてこのブログに全部、載せている。

 

当時わっちがノートに書き起こした

そのまんまである。

 

思い出して文字に起こして、というのが

当時はまだ四十九日を過ぎたくらいの頃だったので

ココロの傷というのがまだ

カサブタにもなっていなかった。

 

逆に生々しい傷だったから、

出来たのかもしれないと思う。

 

記憶をほじくっていると

まだソコに、毒母が「居る」気がする。

居る気はするが、毒を吐きつけては来ないのだ。

安心して、本心を放出できた。

 

安心して…、というのとも違うか。

文字通り、一心不乱に自分の感情を書きまくっていた。

書いている間に、覗き込んで来る人もいない。

何やってんの

何が楽しいの

何か意味があるの

そういう言葉が降って来る心配もない。

 

そういえば東京では花火をする場所がない、

ニュースで言っていた。

花火が出来る公園を見つけて

子供たちがはしゃいでいるのを見て、親御さんが

「楽しそうで嬉しい」

と言っていた。

 

すげぇな。

 

わっちがガキの頃、毒母に花火したい、と言ったら

「お金燃やすようなもんでしょ」

と返って来た。

 

まぁ、そうね。花火を「買う」わけだからね。

 

つかソレ、子どもに言うかなぁ(-_-;)

 

その発言の前までは、何度か花火を買ってもらって

家の前でやった記憶がある。

 

だが、何しろ「きょうだい児」のわっちは

「お金を燃やすようなもの」

と言われてしまっては、それ以降

花火がしたい、とは言わなくなった。

 

多分このくらいの時期に、

親戚からもらうお年玉もわっちは手にしなくなった。

 

袋を入れ替えて先方のガキに渡すのだ。

 

だがそれでも、向こうは

健常者のふたりきょうだいだったりするわけで

我が家は赤字になる

というようなことを毒母から言われてからは

「お年玉」という行事がココロの負担になっていた。

 

わっちがお年玉もらうと良くない

という発想である。

かと言って正月に行ってお年玉出されて

受け取らないわけにもいかない。

結局、わっちは「行きたくない」と言うようになった。

 

毒母にとっては我が父の実家であるから

しめたもんである。

わっちをダシにして、正月に顔出しをしなくなった。

 

当時は兄様の帰省もあったので

顔出しをしなくて良くなった分、

兄様の外泊の日数が延びて、

毒母としては大満足だったろう。

 

かと言ってわっちも、

そんなにお年玉が欲しかったわけでもなければ

父方のジジババに会いたかったわけでもない。

 

孫の中で一番年長だったわっちは何かにつけて

叔母連中に我慢を強いられていたので、

行かなくても別に問題はなかった。

何で行っていたかと言えば

「連れて行かれるから」というだけであって

行ったところで何もいいことはなかった。