わんこの散歩のとき、ちょくちょく行き会う

わんこと飼い主さんがいる。

 

毒母がまだわんこの散歩をしていた頃、

よく立ち話をしていた飼い主さんである。

 

最近、ご主人を亡くされたそうで

わっちと行き会うと、その辛さ切なさ寂しさを語るのだが

毎回、涙をこぼす。

 

「50年連れ添ったから…」

「居るのが当たり前だったのに、いないのが辛い…」

 

わっちは自分で言うのも何だが「聞き上手」である。

何たってあの毒母に鍛えられている。

ある意味、傾聴を強制されてきた。

 

毒母の話を聞くのに比べたら、ご近所のオバサマのお話を聞いて

なだめたり励ましたりするのなんて全く苦にならない。

むしろ、わっちに吐いてラクになるなら、何でも聞きますよ

ぐらいなもんだ。

 

そのオバサマが、今日、いつものように

わっちにちまちまとこぼして、涙もこぼして、

ふと、言った。

 

「真帆ちゃんも、寂しくない?

夜、ひとりで」

 

…え?

 

「うち、(わんこ)ふたりもいるから、寂しいなんて

思ってるヒマないかも。ワガママ放題のコたちだし(笑)」

 

「うちも、このコはいるけど、やっぱり寂しくて…」

 

 

ひとしきりお話ししたあと、各々の散歩へ向かったのだが

わっちは新たな発見にちょっと驚いていた。

 

寂しい…?

 

思ったこともなかった。

 

葬儀法要、行政の手続き関係が続いていた時期は

「あぁくっそ、忙しいな!」

だったし、そこを乗り切ったあとは

 

「自分自身の意志で、好きなようにしていい」という状況に

あたふたおろおろして、どうしていいかわからなくなった。

 

自分の思うようにする、ということが「悪」であって

常に家のこと両親のこと兄様のことを優先する思考が

がっつり刷り込まれていたからだ。

 

毒母を見送ったわっちが感じていたのは

「寂しさ」ではなく「罪悪感」だった。

 

父が他界したあと、新盆を過ぎてから

おかしくなるほどの「寂しさ」を味わった。

 

同じ家の中に毒母がいるのに、わっちの本当の感情を

理解してくれる人は誰もいなかった。

 

気が狂いそうなほどの寂しさの中で、

毒母とモラハラ元夫は異常とも思える「圧」をかけてきた。

あのとき崩壊したわっちのメンタルは

まだ完全修復されていない。

 

だが、毒母を見送ったあとには

そういう感情が、まったく、なかった。

 

できることは全部やったし、捧げられるすべてを捧げたから

もういいっしょ。って話だ。

 

夜に、寂しい?

 

寂しいどころか、賑やかだ。

わんこたちが両サイドに張り付いて、

「ひとくち、ちょうだーい!」

「これじゃなくて、そっちが食べたーい!」

だのと、まぁ言いたい放題だ。

 

食事が終わったら、わんこの歯磨きに耳掃除、目やに取り。

きちんとできたご褒美と、今日の食べるのは終わりだよ!という

オヤツの儀式。

 

それから、

「外でちっこするー!」とか

「なんか誰か通ったんじゃないの⁉」とか言って

“お庭に出せー!”というアピールがあってから

お布団で横になったり、わっちの足元にくっついて休んだりして

やっと落ち着く。

 

寂しいどころか、結構、忙しいよ…(-_-;)