かつて人は、僕をエセ霊能力者と呼んだ。
そう呼ぶのは同業者で、僕を蔑んだ言葉だったのだろう。
だが僕は、この蔑んだ呼ばれ方を、とても気に入っていたのだ。
エセ霊能力者どころか、自分で自分をエセ0能力者と呼ぶ程だったのである。
自分の実力は自分でよくわかっているし。
蝶々は、自分が蝶々と呼ばれているのを知らないが、蝶々は蝶々として自由に飛んでいる。
本当に大切なのは、自分が自分として生きることだと僕は思う。
以前、青い太陽のある会員が、コミュにコメントを入れる度に、必ず自分の仕事の報告をしていたことを思い出す。
今、夜勤から帰ったとか。これから夜勤に行くとか。彼は言っていた。
コミュにコメントをするばかりではなく。よっぽど自分を主張したいのだろうか、同じような内容を、僕に直メでも言って来るのである。
そちらにも、同じように、夜勤から帰ったとか仕事の報告をしていたのだ。
何故、わざわざそんな報告を他人にするのか?僕は全く理解出来なかった。
そういった報告は、我々に対して、自分はよく働く人間だと主張しているようにも感じる。
これは多分、その方は、自分の人生に満足しているから。なのでは無いだろうか?
僕は、何となくそんな気がした。
羨ましい限りである。
もしも、僕のお母さんが、今でも生きていたとしたら。
僕も同じように、頑張った報告をしてみたいと思うことはある。
子供の頃の、ある思い出を、僕はよく思い出している。
あれは、僕が幼稚園児の頃だったと思う。
夜、僕は母と一緒に星空を見ていた。
あの綺麗な星々に手が届きそうな気がした。
あの星は、この手に掴めるんじゃないか?って、本当にあの時に思った。
お母さんに聞いた。
宇宙は何処まで続いているの?
母は、宇宙はもう果てしないの。
と答えた。
母のその言葉に、僕はとして不思議な気持ちになった。
果てが無いって、どんなことなのだろうか?
宇宙の偉大さを感じながら。それでも僕は、どうしても、あの星空に手を伸ばし、あの星々を掴もうとしてしまうのである。
そんな幼稚園児は、そのまんま大人になったのかも知れない。
大人になって、超能力を身に付け、やがて第一回青い太陽交流会を開いた。
やっと、星に手を伸ばし始めたのである。
僕は、そのことを母に報告したかった。
でも、僕はどうしても母に、そのことは言えなかった。
まだダメだ。
もっと自分が大きくならなければ、母にはこんなことは報告は出来ない。
僕は、そう思ったのである。
だが、交流会の三日後、母は急死したのであった。
僕は、生涯、自分の功績を自慢出来る人を失ったと思った。
母が亡くなり、やがて僕は妻と別居をしなければならなくなった。
その頃は、家のローンが3つもあり。経営している会社は火の車。
僕は莫大な借金を抱えていた。
それでも、別居した妻や子供たちの養育費を支払わなくてはならない。
毎月、自分の手元に残る生活費は、五万円にも満たなくなってしまった。
だが僕には、何の不安も無かった。
人の金運は、お金の使い道で決まる。
収入は潜在意識に任せ、僕は使い道だけを考えることにした。
使い道だけを考える。
使い道が正しければ、お金はその分入るはずだ。
まさか、青い太陽の会員から月謝を取る訳には行かない。
青い太陽は、無料であることに意味があるからだ。
金に綺麗じゃなきゃ、男になれねえ。
ある親分の言葉を思い出す。
今だから言えるが、僕は、会員から金を取るどころか。金に苦しむ会員には、自分の生活費をそっくり渡したものだった。
それでいて、今月はニ百万、来月はまた百万と、借金をしてでも、僕は会社を経営する為に、金を作らなければならない。
その頃、僕は、既にスピリチュアルカウンセラーとしての名前が売れ始めていた。
正直、これだけは、自分として情けないことだったのだ。
何故、困っている人たちから、お金を貰わなければならないのだろう。
先生と呼ばれ、多くの方々に喜ばれながらも、彼らから収入を得なければならない。
僕はこんな生活をしてしまう。自分の運命を呪ったのである。
この能力は呪いだ。
これは、自分にかけられた呪いなんだ。
だが、いくら自分がそれを退けようとしても、ご相談者は後を絶たない。
助けてくださいという声に対して、見て見ぬふりも、僕には出来なかった。
そして不思議なことに、足りない収入の分だけ、ご相談は来るのである。
僕は、自分の生活とカウンセラーの仕事が、切り離せない運命の中に居た。
カウンセラーの仕事を避けても、その分、生活費は無くなるようになって行った。
どうしても、受けるようになってしまう。
だから僕は、運命に身を任せることにした。
とても情けない話であるが。僕は当時、場末のスナックなどでカウンセリングを行った。
夜の飲み屋街に出没する。ドサ回りの霊能力者である。
カラオケか鳴り響く、飲み屋の片隅で、霊能力者先生は、カラオケに負けない大きな声で、ご相談に乗っている姿があった。
噂を聞いて、他の飲み屋からも、僕の相談を受ける方もいた。
ご相談者の多くは、社会からドロップアウトした方も多く。
その中には、殺人者やソープ嬢、ヤクザなども多くいた。
皆、僕の能力や存在を賛美はしてくれるが、僕のやっていることは、人として生きる自信を無くすのに、じゅうぶんであったのだ。
こんな姿。亡くなった父や母には見せられない。
他人の悩み事を食い物にするなんて。
自分が情けなさ過ぎる。
父や母への思い出は、僕の心の中から遠退いていったのである。
俺は、金の為にやってんじゃねえ。
たまたま、彼らが居るから助かってはいるが、金銭を請求したことなど、俺には一度も無い。
頼まれるから、無視は出来ないんだよ。
言い訳か?
でも、この言い訳にも意味がある。
父や母には顔向け出来ず。
この、エセ0能力者としての自分の姿は、自分を傲慢にすることも無く。
また、ご相談者への、感謝の気持ちを自分の中に養って行くことが出来たと思う。
その頃、青い太陽の会員が、突然うちに転がり込む形で、内弟子となった。
さあ、大変だ。
一人でも食いぶちに事欠く有り様なのに、この貧乏屋敷にもう一人、人が増えてしまった。
内弟子になった彼女に、最初に言った言葉はこうである。
俺は、孤独を愛する人間だから。
この言葉は、自分の経済状態を悟られない為に、自分と弟子の間に線を引きたいが為に、出て来た言葉であった。
武士は食わねど高楊枝。
貧乏は隠せないと言うが、僕は彼女に、上手く自分の貧乏を隠すことが出来たと思う。
後年、彼女は、あの時の僕の姿を見て、ケチな人だと思っていたと言われた。
ケチに見せていただけだ。
本当の僕は、ケチとは正反対の性格なのである。
あの頃の、彼女との良い思い出を一つ挙げるとしたら、これだ。
お前、俺を殺す気かよ!
この、僕が言った一言だ。
(笑)
今、思い出しても、この台詞は楽しかった。
これは、あまりにもカウンセリングの予約が詰まったスケジュール表を見て、彼女に対して言った僕の暴言である。
僕が、霊能力者として愚痴を言ったのは、後にも先にも、これ一度だけである。
カウンセラー、霊能力者と言っても、僕は昼間は会社の経営者だ。
岡山講演会以降、最近では、割と楽な社長業務をこなしてはいるが。依然はもっと僕の仕事は過酷だった。
例えば、真夏の炎天下で労働をし、夜はカウンセリングをしなければならない。
急いで家に帰り。急いでシャワーだ。
シャワーで汗を流すと、もうドット疲れが出て、全く動きたくない。
でも、1時間後には、ご相談者はやって来る。
人間は、不思議なもので、やらされていると思うと疲れるが、自分から進んでやると疲れない。
他人の責任で働くと疲れるが、自分の責任で働くと疲れないのである。
僕は、自分の責任として働いたから、体力は持ったのだと思う。
だが、カウンセリングは時間が長く、そして眠い。
2~3時間の睡眠で、また早く起きて、昼間は労働をしなければならないのだ。
病院に入院し、自分の睡眠状態を検査すると。僕の熟睡時間は、わずか数分であった。
僕は、睡眠障害と慢性疲労になっていたのである。
こんな状態だったので、一度位、僕は他人に愚痴を言って見たかったのである。
だから、弟子が出来たので、僕は始めて他人に愚痴を言ってみたのだ。
愚痴を言う。
他人に甘える。
凄く楽な行為ではある。
だが、言ったら言ったで、弟子はとても困っていた。
それを見て、僕は彼女に申し訳ず。
僕はもう、誰にも愚痴は言えない運命であることを、悟ったのである。
もう、愚痴は言わない。
どんなに頑張っても、自分のしたことを、他人に評価してもらうこともやめよう。
今日も夜勤です。なんて言いたいときは、僕にだってある。
仕事が辛いって、言いたいときも、やっぱり僕にもあるのですよ。
でもね、そんなときは、父や母のことを思い出している。
今まで、自分を支えてくれた人たちや、多くのご相談者たちのことも、僕は思い出している。
花は、土が無ければ咲けない。
水が無くても、花ば咲けないんだ。
自分、一人で大きくなった顔をするな。
今のお前があるのは、周りの人たちが、土や水になってくれたからじゃないか?
それなのに、他人に愚痴を言ったり、頑張った自分を評価してもらおうと思うのは、自分を咲かしてくれた多くの人たちに対し、感謝をしていない証拠なんだぞ。
社会がお前を育てた。
その社会に、これ以上何を求めると言うのだ。
お前が自力で、一人で大きくなったのなら、他人に自分の苦労を愚痴れば良い。
頑張った評価を他人に求めれば良いだろう。
だがな、他人に育てて貰った恩があれば、傲慢にもなれないはずだし。
その分、黙って社会に対して恩返しをするべきじゃないのか。
もう一人の自分は、こんなことを僕に言って来る。
社会に対して音を返すなんて、自分としても大袈裟なんだけど、自分の中にはこんな声があり。
僕は、その自分の声に、正直に従って生きて来たのである。
これは、あまり知られていないが。僕は精神的に疾患を抱えている。
他人との、コミュニケーションが、とても苦手なのである。
正直、電話に出るのも怖い。
メールを開くのも怖い。
他人と接するのが、とても怖いんだ。
だから、カウンセリングの待ち時間も、どんな人が来るのか、とても心配だし。カウンセリング中も、強いストレスを抱え、他人にそれを知られないように隠して来た。
僕は今、自分として、とても苦手な生き方を選んでいる。
それを選んだのは、小学生の時だ。
確か、小学3年生の時だったと思う。
子供の頃の僕は、他人とのコミュニケーションが取れず。
自分の世界に入ってしまい、なかなか他人と打ち解けられない毎日が続いていた。
学級で作った。花壇などを2階の教室の窓から投げたり。学級で扱う品々を窓から投げて、自分の存在をクラスにアピールしたりした。
そんな僕だったから。学級で何か問題があると、僕はよく皆に疑われていたのだ。
だが、疑われても、コミュニケーション能力に乏しく、僕は誰にも何も言い返せないのである。
言い返せない代わりに、文句を言う相手の口を見て、蝶々や恐竜の姿を想像してしまう。
相手とか関係無い、別の次元に行ってしまうのだ。
この子は、普通学級は無理です。特殊学級に入れましょう。
僕に対する。先生たちの見解は、こうだった。
これが、3年生の時である。
父や母にも言われたが、僕はどうしても普通学級にいたかった。
僕は、学校に行くと、学校の校門に僕の名前をチョークで書くことにした。
学校の生徒全員に、僕の名前を覚えてもらう為である。
そして、名前の下に、天才児と書いたのであった。
誰が何と言おうと、俺は本当は天才なんだ。
皆、そのことをわかってくれ。
僕は、特殊学級行きを免れ、天才として生きる決意をしたんだな。
(笑)
大袈裟だけど、それが今の自分を作ったのだと思う。
だから、あの時から、僕は自分のコミュニケーション能力の至らなさと向き合っている。
自分を育ててくれた。この社会に恩返しがしたい。
こういった台詞は、大袈裟なのだが、社会に対して愚痴を言わず。評価を求めないのは、確かな事実である。
年に数回行われる。僕の講演会は、恩返しのつもりでも無いのだが、皆さんに惜しげも無く知識を提供しているつもりだ。
姿を見せ、露出度を上げることは、ファンサービスの一貫でもある。
この講演会。以前は、僕の話など、あんな話は誰でも出来るとか、随分と悪く言われて来たが。今は誰もそんな人は居ない。
何故、皆さんに僕が自分の知識を分けているのかを、薄々感じているのだろう。
僕の思いがわかった人は、誰も僕の話を悪く言わず。
僕の思いを受けとめ、皆さん、食い入るように話を聞いてくれている。
この講演会も、そして日々のカウンセリングも、半分は僕が自分への挑戦状なのだ。
コミュニケーション能力に欠けるという。精神的な疾患と、僕は真っ直ぐに向き合って来た。
これは、僕に与えられた使命と言っても良いだろう。
岡山講演会以降、社長業務が楽になったと言ったが。
あの講演会が、僕の人生の分岐点となった。
ここまで書いて来たように。僕は、他人の悩み事で飯を食う生き方を恥じていた。
金が無いからでは無く、助けてほしいと頼まれたから、やって来たのだが。それでも、やっぱり父や母には、胸を張って自分の生き方を示すことは出来ない。
母には、第一回青い太陽交流会の報告も出来ず。
両親供に亡くなり、自分がやったことを、評価して貰える術を失っている。
お母さん、僕は正しいのだろうか?
こんなこと、たまには聞いてみたい。
たが、甘えだよ。
僕も誰かに甘えたい。
岡山講演会は、かつて無い程に、とても辛い講演会となった。
それと同時に、かつて無い程、楽しい思いをさせていただいた。
というのは、岡山講演会の一週間前。
僕は長崎にいた。
長崎に旅行に行っていたのだ。
長崎のホテルから見る夜景は、それはとても綺麗だったのだが、同行した相手はとても行儀が悪かった。
僕を、眠らせてくれないのである。
移動中も、きちんと座ることは無く。半分は僕の席にまで座り、僕の足に自分の足を乗せて、何が楽しいのか?ずっと話し続けている。
何処かで眠らせてくれよ。
あんた。元気が良いのは良いけどさ。
長崎から帰ったら、僕はグッタリである。
僕は、深い海の中に生きる貝になりたい。
いつもそう思っている。
誰とも、口を聞きたくないのだ。
あまりにも体調が悪く、夜中、救急病院に行くと、僕はインフルエンザと診断された。
岡山講演会まで、あと数日。治さなければならない。
だが、この数日間こそ、僕は生まれて始めて楽しい気持ちを感じることが出来たのだ。
インフルエンザで、どんなに体が辛くても、他人と接しなくて済むのである。
自分はやっと孤独になれた。
生きることに、こんなにもストレスを感じていたことを、僕は始めて知ったのだ。
そして、岡山講演会の日が来た。
体調はかなり悪い。
だが、気持ちは晴れ晴れしている。
あまりにも体調が悪い為に、僕は講演会で何を話したのか覚えていない。
だが僕は、無我夢中で、自分自身を正直に表現することが出来たのだ。
俺はついにやった。
講演会は、辛かったのだが、これを良くは説明は出来ないんだけど、自分自身の生き方に、ここでけりを付ける事が出来た気がした。
誰とも接しない自分自身も、それはそれで良い。
インフルエンザになり、そのまま寝ていて、岡山講演会が中止になっても、誰も文句は言わなかっただろう。
それでも僕は、喜んで自分は岡山に行った。
辛くても、自分は気持ち良く話が出来、ちゃんと自分自身を表現してるじゃないか。
これこそが、俺らしい生き方なのだ。
岡山空港での話。
岡山空港に、鳥人幸吉という男の記事があった。
聞けば、岡山の人しか知らないような奇人らしい。
幸吉は、江戸時代の人で、白い鳩を研究し、人間用の翼を作り実際に空を飛んだと言う。
それが本当なら、ライト兄弟よりも、百年も早く人が空を飛ぶ羽を作ったことになる。
だが、当時の日本での幸吉は、変人扱いをされ、岡山から京都に所払いの刑を受け。
また、京都でも空を飛び、京都でも所払いの刑を受けたと言う。
僕は、この記事を読み。心の中で笑った。
ここにも、エセがいるじゃないか。
こんなにも、立派なエセがいたぞ。
本当なら、ライト兄弟よりも凄かった奴が、その時代にはエセ扱いされていた。
でも、蝶々は蝶々と呼ばれていることを知らなくても、蝶々は蝶々として、自由に空を飛んでいるのである。
僕は、誰に何と言われようと、幸吉が自由に空を飛んでいる風景を思い描いた。
エセ0能力者。
俺、生まれ変わっても。
多分、この生き方をまた選ぶだろう。
岡山から帰宅し、僕はとにかくベットに潜った。
もう、完全に力が尽きていたのである。
すると、部屋に誰かが入って来た。
僕の足元に、誰かが立っている。
誰だろう?
たった一言だった。
僕の名前を呼んでいる。
それは、紛れもなく。
第一回青い太陽交流会の直後、急死した母の声だった。
僕は、ベットから這い上がり、母の姿を追った。
だがもう、足元には誰も居なかった。
呼んでも返事は無い。
でも、僕にはわかっていた。
母の言わんとしてることが。
僕の名前を呼んだ一言に、母の気持ちが感じられた。
僕は、やっと母にも認められたんだ。
一番、認めてほしかった人は、実は、ずっと僕の生き方を見ていてくれていたことも、僕はこの時にやっとわかった。
もう果てしない、この宇宙。
だが、そこに、手を伸ばそうとする素直な気持ち。
あの時の素直な気持ちを、僕は、まだ持っているのだろうか?
でも、思い出は残っている。
今がどんな生き方をしていても良い。
あの時の思い出は、母と一緒に、今も心の中にずっと残っているのだ。