「2011年は世界2位になれた。ただ、技術革新もあるから、常にライバルの数年先をいくことを心がけないと…」。NECで主席主幹として海底ケーブル事業を担当する原田治(59)は、厳しい表情を崩さない。
ユーチューブなどの動画サイトやフェイスブックなどの交流サイト、世界を瞬時に駆け巡る金融取引。電話だけでなく、ワールドワイドの膨大なデータ通信を支えるのが、全世界に張り巡らされた海底ケーブルだ。いわば、「世界インフラ」。かつては衛星通信もその役割の半分を担っていたが、寿命や伝送スピードなどの優位性から、現在は99%は海底をはう光ファイバーケーブルに頼る。
海底にケーブルを敷設するには専用船で運び、海に落としていくという単純な作業だが、直径2~5センチのケーブルには先端技術が詰まっており、最新のものだと1本の伝送容量は毎秒最大80テラ(1テラは1兆)ビット、1秒間に映画のDVD2100枚を送れる能力を持つ。原田はこの海底ケーブル敷設事業にNECが参入して以来、30年以上にわたってかかわってきた。その間には、どん底ともいえる苦難の歴史もあった。「必ず戻ってこられるようにするから…」。海洋光ネットワーク事業部(当時)の事業部長代理だった原田が、泣く泣く部下に配置転換を告げたのは2002年ごろだった。
この事業部は発注先が通信会社に限られ、他の部門に比べ深い専門知識が要求されるなど特殊な分野ということもあって異動は少なかった。その分、100人程度の事業部員は家族のような存在。その一員に異動を告げるのは酷な役回りだ。リストラを迫られたのは、米国のITバブル崩壊が原因。別名、ネットバブルとも称されたように、インターネットの普及に伴い米国でネットベンチャーが雨後のたけのこのように生まれ株式を公開。1999年から2000年にかけて株価が異常な高騰ぶりを示した。だが、FRB(米連邦準備制度理事会)の利上げや01年の9・11米中枢同時テロなども重なって、バブルはあっけなく崩壊した。
海底ケーブルビジネスはこの影響をもろにかぶった。1998年ごろまでは世界市場が年20億~30億ドル(現在の邦貨換算で約1700億~2500億円)で安定していたが、バブル時の99年に70億ドル、2000年には100億ドル近くまで膨れあがった。投機筋がケーブル敷設に資金を投入してきたからだ。しかし、「山高ければ谷深し」のことわざどおり、バブル崩壊とともにプロジェクトは激減。02年の世界市場はわずか1億ドル程度に縮んだ。
こうなれば業界再編は必至だ。欧州などの海底ケーブル企業が撤退したり事業売却したりするなど、それまで7社程度あった同業が、米タイコ・テレコミュニケーションズ(現TEサブコム)、仏アルカテル・ルーセント、そしてNECという現在の大手3社に絞られた。もちろん、NECも受注が激減。事業部の売上高は1999年度に約800億円だったが、2002年度300億円、03~05年度は100億円以下という惨状が続き、事業の存続が問われた。事業部員も「(専門知識や技術を持つなど)どうしても外せない要員を除き、極限まで絞って」3分の1に減らし、事業部も開発から営業まで一体化した「海洋プロジェクト統括部」に変更、いわば格下げとなった。
だが、原田はあきらめなかった。こう考えたのだ。「アジアの経済成長が続けばネット人口は増え続ける。データ通信量も伸びるから、海底ケーブル需要は必ず復活する」。原田の考えに経営陣も同意し、当面は事業継続となった。復活を確信したのは、単に需要の読みだけではない。原田の自信には「NECだけが持っている技術」という裏付けがあった。
海底ケーブル事業はケーブルだけでなく、途中のデータ減衰を防ぐ40~100キロごとの中継器、陸上の基地局などからなる総合システム。例えば、日本と米国を結ぶ場合、ケーブルの総延長は9000キロ以上に及び、深さ8000メートルという日本海溝の深海にケーブルをはわせる必要がある。だが、この深さになると「親指で自動車1台を支えるほど」の圧力がかかる。これに耐えるケーブルや中継器の技術は、日本ではNECだけ、世界でもトップ3社にしかない。
また、組織が小さくなったことで、むしろ原田にはやるべきことが見えてきた。技術力の向上、プロジェクト運営や実行方法の見直し、発注後にキャンセルされた場合のリスク管理。雌伏から再挑戦に向けた周到な準備だ。原田の予測は、早くも翌年の2003年に実現した。
同年初夏の日曜日の夕、東京都品川区の自宅でくつろいでいた原田に国際電話がかかってきた。米アラスカ州の通信会社GCI(ゼネラル・コミュニケーション)の担当者からだ。「NECを呼ぶことになるから、受注に向けた交渉の準備を進めておいてほしい」
NECは、GCIのアラスカから東海岸のオレゴン州までの総延長2500キロの海底ケーブル敷設計画に応札していたのだ。この時点で受注の最有力企業となった。原田は内心の喜びを抑えながら交渉スケジュールなどを打ち合わせして電話を終え、そっと一人で祝杯をあげた。実は、この案件に自信があったわけではない。米国はタイコの地元。海底ケーブル敷設ではコスト面からケーブル製造拠点からの輸送距離が短い地元企業、この場合はタイコが有利。現に、かつてGCIが発注したプロジェクトはタイコが受注していた。それを覆したのは総合力が評価されたためだ。
原田はその後、何回もアラスカに足を運び、2カ月後の7月には正式受注にこぎ着けた。このプロジェクトが復活の端緒となった。2年後の05年にはインドネシアの島々約30カ所を結ぶ総延長1040キロの海底ケーブルを受注した。受注額はアラスカが約42億円、インドネシアは約60億円。数百億円にのぼるプロジェクトも珍しくないこの事業では小ぶりだが、原田は「需要が戻ってきたな」と確信した。
事態が好転し始めると、しばしばさらなる追い風が吹く。06年に海洋システム事業部に格上げとなり、事業部長に就任した原田は、08年に海底ケーブルメーカー「OCC(オーシャン・ケーブル・カンパニー、横浜市西区)の買収を決意した。NECはそれまでケーブルをOCCから調達していたが、それを本体に取り込めれば、ケーブル製造から中継器、交換機など欧米のライバルと同様のトータルの事業体制が整う。
OCCは戦前、国策の海底ケーブルメーカーとして、住友電気工業、古河電気工業、フジクラという3大電線メーカーが出資して設立された。だが、ITバブル崩壊とともに業績が悪化。04年には産業再生機構(当時)が支援することになったが、機構は06年にOCC株を投資ファンドに譲渡していた。NECは住友電工とともにファンドからOCC株を買うことで合意(NECの出資比率75%)したが、ケーブル事業復活の兆しがみえてきたときだけに、電線3社が出資したままだったら、買収交渉がすんなり進んだかどうかは分からない。
現在の事業部は、バブル前の100人規模の体制に戻り、原田は部下の復帰という約束を果たした。昨年は米TEサブコムに次ぐ世界シェア2位(敷設距離ベース)にもなった。技術だけでなく、海底の地形を熟知する専門家らも抱えるこの分野は、新規参入は容易ではない。今後の需要の中心となるアジアをにらむ“地の利”もあり、世界トップも視野に入ってきた。
気がかりは、中国の通信大手、華為(ファーウェイ)技術が参入の気配をみせていることだ。すでに中国・台湾間のケーブル敷設の実績もある。欧米の同業から技術者のヘッドハントも進めているという。中台間は約200キロで、中核技術の一つである中継器は必要ない距離。深海の長距離敷設が可能となるには時間がかかりそうだが、それでも、原田は「中国は脅威だ」と戒める。
NECが世界の先頭を走る技術は、光ファイバーの大容量化だ。海底ケーブルは髪の毛ほどの細さのファイバーを8~12本束ねるが、差別化には1本当たりの伝送容量の増大が不可欠。現在は1本に25種の異なる波長を流しているが、これを3倍に増やせば、容量は2.5倍になり、計画全体の効率化を図れる。
韓国や中国の追い上げを受けて退潮が目立つ日本の製造業に、再挑戦が求められる分野は数多い。波乱に満ちたNECの海底ケーブル事業の年代記は、モノづくりのDNA、新興国の追随を許さない技術の優位性、市場を見通す力が、再挑戦への権利だということを教えてくれる。=敬称略(林英男)
関連記事
ダウンロード刑罰化で違法=罰則がつくということにはならないのですか?ニコ生公...
釜山のデザイン企業 日本進出に本腰=福岡で説明会
脱出ゲームTVは ケータイから参加出来ますか?
男好きの妹を落ち着かせるにはどうしたらいいですか?妹は、最近旦那さんや可愛...
広島から福岡まで、昼行バスまたは夜行バスで片道いくらぐらいでしょうか?