瀬織津姫 & クンダリーニ…No.207 | 8484yogiさんのブログ

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瀬織津姫No.207

前回はシャクティや地母神(太母)という観点から瀬織津媛を検証しましたが、自分はここが原点であろうと思います。それは、○○神と名の付くような人格化された女神ではなく、宇宙の創造・維持・破壊を司るエネルギーを神格化したもっと壮大な存在です。エネルギーには意識がありますので、人がそのイメージを持てばそのようなアヴァターラ(化身)として表れることはあるでしょうけどね。

アヴァターラとは主としてヒンドゥー教ヴィシュヌ派での思想で、仏教の釈迦もヒンドゥー教においてはヴィシュヌ神のアヴァターラ(化身)の一人と捉えられています。なので、創作されて実在しない人物なのかも知れない神功皇后や如意尼を自分は瀬織津媛を背負うという表現をしますが、それはアヴァターラということになります。

さて、前回も取り上げた黒という意味を持つシヴァ神の妃神である三女神の一柱、「カーリー」について、瀬織津媛との接点をもう少し考証してみたいと思います。同じく三女神の一神で虎(ライオン)に跨がるドゥルガーは、日本では准胝(提)観音(じゅんていかんのん)と一説には同一視されています。

ヒンドゥー教のパールヴァティ・ドゥルガー・カーリーの三女神がクンダリーニ・シャクティを象徴する女神であることを念頭におけば、それが仏教に採り入れられたとしても、そこにはクンダリーニ的要素が含まれることは予想できますよね。カーリー=ドゥルガーということですから、准胝観音についても少し触れておきましょう。



准胝観音は空海が崇敬したことでも有名ですが、観音とあっても、日本では観音は女性的となりますが、本国インドでは観音様は男なので元は観音としてではなく、女神ということで「准胝仏母」と呼ばれ、観音様とはされていませんでした。梵語ではチュンディー(清浄)と言います。この仏はいろいろな名前を持つのですが「七倶胝仏母」とも呼ばれます。

七倶胝仏母の説明として『「七千万の仏の母」・「過去無量諸仏の母」という意味で、この仏母(これは女性名詞である)が、人を悟りに導いて数限りない仏を誕生させる仏教の真理の擬人化であることを示す』とあります。

七倶胝仏母がドゥルガー(カーリー)と同体であり、仏教において七倶胝仏母となったのであるならば、また、それが仏教の真理の擬人化で数限りない仏を誕生させる存在とされるのであれば、仏教の真理とは「クンダリーニシャクティ」だあるとも受け取れる表現です。

数限りない仏を誕生させるとは、人を悟りに導くということで、成仏させるという意味です。それが女神であるクンダリーニ(七倶胝仏母)によってなされるということですね。

エネルギーを神格化しているので、人の形(仏像)を想像してしまいますが、あくまで、姿形のないエネルギーが七倶胝仏母です。それは、仏教が偶像崇拝と言われる所以でもありますけどね…。とは言え、仏像を造ったり、荘厳しなければ人の心は有り難みが分からないのも事実です。偶像崇拝だから、邪教というのは人間レベルの話で神はそんなことはどちらでも構わないのですが、そこを原因として宗教間の争いをするから、人は愚かなのです。

で、仏(ほとけ)は「ホト気」に通じます。

ホトとはタタラ(錬金術)における「火戸(門)」であり、女陰のことでしたね。そのホトの気(エネルギー)とはつまり、三女神のクンダリーニシャクティのことですし、グンダリ明王や不動明王など明王部の仏などはストレートにクンダリーニを象徴した神となりますから、仏とは釈迦がクンダリーニを昇華して悟ったように「仏」という言葉そのものがクンダリーニを表しているのかも知れません。

七倶胝仏母(准胝仏母)の功徳は『経典によると、准胝の修法をなす者は、清穢及び出家・在家を問わずに飲酒肉食し、かつ妻子あるも仏道修行を達成するという。また、心の働きを清浄にするほとけであり、「仏の母」という名から、安産、子授けの功徳もあるとされている』とあります。

一般の仏教が飲酒肉食を禁じているのに対し、この仏母の功徳にはそれも許されるというニュアンスがあります。カーリーの宮殿は供犠された動物の血生臭い臭いがしますから、それもオッケーということなのでしょう。このことはヒンドゥー教の神が仏教に採り入れられたという前提があるからだと思います。

インドにおける仏教がヒンドゥー教に押されて衰退していく中でタントラが採り入れられたのが密教です。初期の釈迦の仏教が戒律に縛られているのに対し、新しい仏教は最終的に無上瑜伽(ゆが=ヨガ)タントラと呼ばれる男女間の「性」をそこに取り込んだ教えとなっていきます。その元もシヴァ神と妃神(三女神)のリンガ・ヨニ、つまりは男女の性器崇拝であり、その裏にあるシャクティ崇拝が後期密教の本尊とも言えます。

空海のもたらした密教はそれ以前のものですから、あからさまではありませんが、理趣経などは性を肯定的に見たお経です。曰く、男女の和合、性的結合は仏の境地…などと記されています。インドではイスラムの台頭があり、密教が消滅していく中、結果的にチベット密教が無上瑜伽タントラを引き継ぎました。

チベットで見られるマニ車を回して「オン マニ ペメ フム」と六字大明呪を唱えるその尊格の観音様とは准胝観音(七倶胝仏母=ドゥルガー)とも言われます。

「オンマニペメフム=オーム・マニ・パドメー・フーム」の解釈として

引用。

『マニは「宝珠」、パドメーは「蓮華」を意味するパドマの処格で(つまりここではマニの在処を示す)、ここでのマニを呼格と解して和訳すると「オーン、蓮華(の中)におわします宝珠よ、フーン」となる。

この真言を「蓮華の中の宝珠よ、幸いあれ」の意とすることがある。しかし、オームは聖音としての「オーム」であり、「幸い」の意味はない。この真言には様々な意味が込められていて、「宝珠」は男性原理としての方便、「蓮華」は女性原理としての般若、フームは呪文の完成を意味する。

金剛乗の瑜伽においては、この真言は男尊と女尊の結合に象徴される空性の覚りを示し、その場合の宝珠は金剛杵(ヴァジュラ)であらわされる男性器を暗示しているという解釈がある。』

宝珠を金剛杵(男根)と解して、女陰たる蓮華との和合を表し、そこに空とか般若(智恵)とかなんちゃらの理屈をつけている訳ですが、理論に走るのは人の頭の作り事となりますから、どうにでも解釈できます。

『マニパドメーは処格ではなく、「マニパドマ」または女性形の「マニパドマー」の呼格であり、「宝の蓮華を持つ者よ」という意味になる。マニパドマは菩薩の名でもある。』

…との説があるように、「マニパドマ」そのものが観音様であり、観音様は両性具有ですから、宝珠はヴァジュラ(金剛杵)たる男根であろうと、或いは、とぐろを巻いた蛇であるシャクティ(女陰)であろうと、どちらでも構わないわけですね。

密教の発展段階で仏教はヒンドゥー教を採り入れたわけですから、そこにあるシャクティが何たるかなのですよ。釈迦もクンダリーニ昇華により悟ったわけで、釈迦を釈尊とも言いますが、この「釈(しゃく)」もシャクティであると自分は考えます。

釈迦がシャクティを発見したわけではなく、それは誰もが有するものであり、様々な宗教の根底にはこのクンダリーニシャクティがあります。問題はクンダリーニが両刃の剣だということですね。なので、聖なる教理は絶対的に必要となるのです。

さて、ドゥルガー(三女神=シャクティ)たる七倶胝仏母はチベット密教では写真のように男女尊が交わるヤブユム(父上母上・歓喜仏)の母尊ともされました。七倶胝仏母は『金剛サッタの母尊となる尊那仏母、梵名スンダー(Sunda:美麗で光り輝くの意味)として説かれている。』そうです。

空海の真言密教では金剛サッタは大日如来から法を授けられた第二祖とされています。金剛○○とつくのはヒンドゥー教に由来する仏のような気がします(シヴァ神)。日本では「金剛蔵王権現=シヴァ神=猿田彦大神」。

金剛サッタは元は下級の鬼神でしたが密教では地位が上がります。おそらく陰陽における陽神的エネルギーの神格化だと自分は推察します。役行者が使役した前鬼的な存在で猿田彦大神です。

なので、チベット密教における金剛サッタと尊那仏母(准胝観音)のヤブユム(歓喜仏)はシヴァ神とシャクティ(三女神)のヤブユムであり、それはリンガ・ヨニということになります。

以前、楊柳観音ということで、三十三間堂の柳の梁(はり・棟木)の話をしましたが、お柳と平太郎夫婦のお柳は柳の精、平太郎は熊野の御神木である梛(なぎ)の精とされていました。で、梛の葉は金剛童子の変化身ともされていましたよね。金剛童子は阿弥陀如来の変化身ともされていましたが、阿弥陀如来もミロクやクンダリーニを象徴します。その金剛童子がクンダリーニを表すことは解説しましたが、上記の金剛サッタの化身が金剛童子ともされるのです。

ということは、平太郎はシヴァ神ということであり、やはり、エネルギー的には猿田彦大神に繋がるのだと思います。それは、阿弥陀如来の後戸の神であるマタラ神(クンダリーニ神)ということでもありますけどね。マタラ神は日本ではチベット密教と同じ左道密教に関係する神です。一方のお柳は瀬織津媛を背負いましたから、ドゥルガー(カーリー)です。柳は仏教においては聖木とされています。

柳の梁(はり)には瀬織津媛のシンボルである「針(はり)」が暗示されており、また、梁は棟木(むなぎ)のことですが、「むなぎ」は胸黄(むなぎ=鰻)であって鰻も暗示しています。鰻もクンダリーニのメタファーでしたが、「うなぎ」は「鵜・ナーギ(梛・蛇)」であって黒い鵜(う)の首から上は黒蛇と捉えられます。

鵜と梛とすれば、陰陽二神です。柱と柱、二本の陰陽の柱に渡す棟木は鵜(瀬織津媛・准胝観音)と梛(猿田彦大神・金剛童子=金剛サッタ)のヤブユムとも言えます。実際には三十三間堂には使われていない柳の梁の話が創作されたのはこうしたことを暗に示す為だったのではないかと勘繰ります。

「しゃく=シャクティ」ということで追究すれば、古神道も仏教も根は同じということが分かるのではないかと思います。神道といっても、天神系ではなく主として出雲系の神道となりますけどね。

ヤブユム(歓喜仏)と言うと、日本では聖天尊がそれですが、象はクンダリーニの鎮まる仙骨を側面から見た形が象ですから、やはり、クンダリーニシャクティに繋がるのです。シャクティ=ホト気(仏)ですね。


ヤブユムについてウィキの一部を引用します。

ま、どんなご高説があったとしても、仏像を一瞥してその理を認識することは一般人には無理です。「今夜、ヤブユムしようよ!」と使われるのが落ちですね(笑)。

しかし、エネルギー的意味における「性=聖」は真理なわけで、性には「生死」が宿っています。

『ヤブユム(チベット語: Yab-yum、逐語的には「父上-母上」)は、インド、ブータン、ネパール、チベットの仏教美術においてよく見られる、男性尊格が配偶者と性的に結合した状を描いたシンボルである。男女両尊、父母仏、男女合体尊とも。

男性尊格が蓮華座にて座し、伴侶がその腿に腰かける座位の構図が一般的である。この交合を通じて大楽を導き、解脱に達することが目指されている。』

座位であるのは背骨のスシュムナー管を真っ直ぐに立てるためですね。ここにある「大楽」とは性的快楽ではなく、精液が転じたエネルギーが背骨を上昇することによる脳内フラッシュによる快楽です。女性の場合はもともとそのエネルギーを内蔵します。

『ヤブユムは無上瑜伽タントラと象徴主義が結びついたものであり、薄明の言語 (sāṃdhyābhāṣā) におけるこのシンボルにはさまざまな解釈がある。男性像はたいてい「慈悲」 (karuṇā カルナー) を与える男性原理である「方便」 (upāya ウパーヤ) 、そしてその伴侶は女性原理である「般若」 (prajñā プラジュニャー) と結びつけられる。

方便と般若(智慧)の象徴的交合は、特にチベットのタントラ仏教における中心的な教えである。この交合は、実践者その人の身体における神秘的な体験として実現される。

ヤブユムは一般に智慧と方便の原初的(あるいは神秘的)な結合を表現しているものと理解されている。仏教において男性原理とは能動であり、方便(ウパーヤ)を表すものである。それは悟りを得るためには必須のものだ。そして女性原理とは受動であり、やはり悟りには欠かせない知性を表している。

これらが合わさることで、この構図はマーヤー(幻影)の蔽いを剥ぎ取り、主体と客体という誤った二元性を克服するために求められる交合の形を取るのである。ヤブユムにおいてはどちらも独立していない。これは至福の境地であり、完成そのものなのだ。』

という概論ですが、これは机上での話であって、抽象的で頭で理解することすら難しいです。体現されなければ何も分かりません。この男女が交わることで即身成仏するという手法は仏教の最終段階である無上瑜伽タントラでは肯定されますが、釈迦の時代にあっては当然否定されたでしょう。これは、仏教が生き延びる手段としての選択とも言えます。

そこにあるシャクティというエネルギー自体にもっと焦点を絞って、理論構成すべきだと自分は思います。

無上瑜伽タントラとはクンダリーニヨーガと仏教教理との合体による陰陽不二一元論といったニュアンスなのですが、『聖なるタントラの実践とは、その人の伴侶と睦み合うことで至福、不二、恍惚を体験し、心そのものを急速に成長させることなのだ。』といった説明通りには実際問題成就しません。そこにはエネルギーを回すテクニックも必要となります。

ヤブユムの男女の女性(陰)とはドゥルガーたるシャクティの象徴であって、肉体を持った人体ではなくエネルギーなのですからね。相手を真の女神と見る観想力もそこには必要となります。チベット人は文盲でしたから、理論を学ぶことなく実践のみでは弊害の方が多かったのではないかと思います。

引用。

『ヒンドゥー教にとってのヤブユムはやや違えた意義を持つ。というのも、男性原理と女性原理の意味が逆転しているのである。

ヒンドゥー教にあっては抱擁の姿勢こそが神の創造力を表しているのである。この考え方によればヤブユムとは、受動的な男性神の一人が、その能動性や力強さを表す配偶者を抱きしめることを意味しているのだ。シヴァには白の精滴のイメージが、その伴侶たるパールヴァティーには赤の卵(もとは血液を意味するラクタ)のイメージがあてられるように、ここに強い性的な連想を読み取れることは明らかである。』

…ということですね。シャクティは「創造・維持・破壊」という能動的エネルギーであって、無上瑜伽タントラとヒンドゥー教では陰陽の役割が逆転しているのです。主はシャクティたる三女神にあるのですよ。

続けて

『タントラの実践としてのヤブユムは、身体を持ったパートナーと行うタントラ的なヨーガである。女性パートナーは印女(ムドラー)と呼ばれ、「羯磨印」(カルマムドラー)は肉体をもった実際の女性パートナー、「智印」(ジュニャーナムドラー)は実際の女性を伴わない観想上のそれを指した。

しかし、これを実践することの目的はその性的なエネルギーを自在に操るためであり、最終的には身体を持ったパートナーを伴わない、精神的な行いとなる。どんなヨーガにもいえることだが、トゥンモ(内的火)の基礎がなくては実践できないものだ。』

とあるように、トゥンモ(内的火)やシャクティといったエネルギーを操作することが出来なくては意味がないのです。トゥンモとは気(ルン)を取り入れて意識で燃やす火で、意識の物質化により実際に熱を持ちます。クンダリーニとは違うようですが、こうして技術的面で捉えた場合にはチベット密教は高度と言えます。

詰まるところは気であり、気は意識に従うということですね。その意識の方向付けが理論であり、真理たる理論を頭ではなく、体得しなければ、エネルギーは弊害です。なので、浄化が必要となるわけです。チベットでは呪いによる殺人もありましたし、ヒンドゥー教のカーリー信者にも殺人が横行していました。両刃の剣なのです。悟りを求める菩提心がなければ、荒ぶるエネルギーは人を破滅に導きます。

カーリーまで話がいきませんでしたが、カーリー=ドゥルガー(准胝観音)でもあります。

(続く)