厚さ4.5cm ほど。
本の話だ。
この厚さは2冊分に相当し、飼い主はなかなか読み終わらない。
物語が長いこともあるが、辞書のように分厚い本は、重いのだ。
毎晩、布団に入ってから仰向けの姿勢で読むには、いささか疲れてしまう。
ページをめくる手が滑って、本が鼻の上に落ちたときは痛かった。
といって、飼い主は昼間に椅子に正しく座って読書をする習慣はないのだが、昨日は雨で暇だったこともあり、珍しく体を縦にした姿勢でこの本を読み進めた。
ストーリーは、明治から大正に生きた婦人解放運動家、伊藤野枝という女性の、短い生涯を追ったものだ。
まだ女性の社会進出の入り口の時代であった頃。
世に名高い【平塚らいてう】が主宰する【青踏】に加わり、自らの口と筆で、自分の考えることを世間に発した、パイオニア的存在の一人だ。
村山由佳が編み上げたこの評伝の書評には、【愛・熱・情熱】などの文字が目立つ。
飼い主は、この本を手に取ったとき、自分には合わないような気がしたが、読書の食わず嫌いを改めようと思っていたので、4.5cmの厚さにも挑戦したのだ。
飼い主は、思う。
「なぜ、このような女性たち、さらにいえば、いわゆる文士は、今でいう不倫がまとわりつくことが多いのか。
度重なる結婚、逃避行に心中、あるいは未遂。
取り沙汰されやすい出来事ではあるが。
その側面には、今一つついていけない。
時代も観念も違うから?
それもある。
不倫するには、情熱が必要だ。
だが、【女流○○】が登場するのに、その道のりの先を目指す情熱はなければならないが、不倫に情熱をそそぐのは、似て非なるものでもなんでもないと感じてしまうなあ。
まあしかし、私には新しいジャンルの本であり、物語であり、一考すべきことかも。
平塚らいてうに限らず、何人もの登場人物は、知れば知るほど色恋沙汰にまみれていて驚く。
【情熱的な女性】とみることは、正しいのか。
こういう部分は、私はこれまで、小学生の教科書のように「そういったことは扱わない」ものを読んできただけだが、事実を掘り下げれば、大人として史実全体を知ることは、避けて通れない。
まあ、いつの世のどんな歴史上の人物も、清廉潔白ばかりではないが。
史実と私実
が、ミキサーにかけられて生まれるのが評伝だからな。
だから、この伊藤野枝の話1冊読むにも、情熱がいる。」
自分でそうつぶやいて、飼い主はふと気がついた。
「そうか。
私が情熱とよぶのは、それが好きかどうかより、習慣や見方などを変え、新たに生まれた力を向けること‥‥自分に変化も課することなのか。」
そうか。
飼い主の情熱は、本来の、自分の心から出た素直な熱い気持ちではなく、「興味があり気に入ってはいるが、ほとばしる気持ちにまで昇華していない、天の邪鬼的趣向」というものだ。
普通、情熱といえば、苦行や犠牲を厭わない純粋な熱意だと思うが。
「何を小難しいことを言っているのか。
一口に情熱といっても、色々な種類がある、というだけのことではないか。」
「パッシオーネ。」
ああ、あれ。
飼い主が毎週末、欠かさずBS日テレの【小さな村の物語イタリア】を観ていることは、何度か書いた。
最近はほとんど再放送なのだが、それでも必ず観る。
ボクからすると、それこそがまさに情熱だ、イタリアに対する。
「登場する村人は様々だが、毎回必ず聞く言葉がある。
それが、パッシオーネ。
英語のパッションに当たる単語?
情熱だ。
この村に住むことへの情熱。
この仕事に対する情熱。
いつも情熱を感じていた。
情熱があるから、続けられる。
‥‥
色々な語り口で耳にする【情熱】。
イタリア人は、よく情熱的だといわれるけど、自分からパッシオーネというダイレクトな言葉で無造作に伝えるから余計に納得してしまう。
番組で出てくるパッシオーネは、なんか、いい雰囲気を纏っている。
残念なことに、少なくとも私には、情熱とかパッションとかパッシオーネとか、気恥ずかしい部類の言葉だ。
それを自ら気負わずに伝えたり、あるいは当然の評価として受けとることができる人には、やはり情熱がほとばしる源泉があるのだな。」
ええ。
ドライで冷徹な飼い主には、内なる温泉は枯渇しています。
それより、お気をつけください。
知ってますよね。
passion は情熱ですが、
Passion
先頭が大文字になると、
受難
という意味ですよね。