先日、息子の知人の飼い犬が老衰で亡くなり、その知人が深く悲しむさまを見て、息子までもらい泣きをしていた。



息子は、ボクを溺愛してくれている。

まだボクの生前中なのに、伊太郎がいなくなったらオレは生きて行けないと公言し、早くも重症のペットロスの前駆症状だ。

そう、息子はガタイのいい外見からは想像できないくらい、動物への細やかな愛情を持ち合わせている、隠れ繊細さんなんだ。



一方、飼い主は。

息子に、伊太郎が死んだらどうする!?と聞かれ、

「埋めればいいんじゃないぼけー、モンテ(先代の犬)の横に。」

とか、

「すぐに京都行こ。

今度は泊まりで行けるから。」

と、こちらは冷徹な外見通りの、情けのカケラもないような、すげない返事。



けれどボクだけは知っている。

ボクだけが、わかるんだ。

飼い主が、そういう現実的な後始末みたいなことしか言わないのは、飼い主なりの覚悟があるから。



息子は騒ぐ。

「いやいや○子さんだって、絶対号泣するぞ❗」



息子の直球的愛情はありがたいが、ボクは飼い主は号泣しないと思うんだ…感情の勝負はしない、申告敬遠だよ。

もちろん、飼い主は少しは涙を流すだろう。

ボクが虹の橋を渡るのを、しっかり見届けてくれるだろう。

大泣きしないからといって、愛情の量を涙に換算してはいけない。



「号泣と言えば。

先日のせいらさんのブログに、あったね。」



こちら




「あの番組は、私も観ていた。

けれど、全く泣かなかった。」



それはボクも知っている。

飼い主は表情を変えずに、静かに見続けただけ。



「ああいう番組とか映画とか、確かに【感動もの】はたくさんあるけど、いくら人に構成されたものであってもその場で泣くことのない私は、やっぱり冷たいのかな、と最初思ったし、感情移入できて号泣できるタイプの人が羨ましくもなったけど、…。」



それは…。

涙の蛇口をひねるタイミングは、人それぞれだから。

これも、ボクが知っていることだが。

飼い主は、人間のことに関してはあまり泣かないが、動物ことに犬に関わる悲しいことには、本当にすごく弱いんだ。

一番飼い主にこたえるのは、ネットで、虐待された犬やひとりで生き延びている犬などの映像を目にしてしまったとき。

正視に耐えなくて、飼い主は閉じてしまう。

そして可哀想に可哀想に、とお経のように唱えている。



「犬は、与えられた姿で、生きていかなければならないんだ。

人間のように自分の体以外のモノがあるわけではなく。

動物保護センターなんかにいる犬の、悲しそうな目。

私は、あの目を見たら泣いてしまう。」



飼い主が犬に思い入れがあるのは、きっとボクが身近にいるからだ。

8年前、ボクを迎えたとき飼い主は言った。

「私は、一生に一匹だけの犬しか幸せにしてあげられないだろうから。」



犬の幸せがどんな定義かはわからないけど、確かにボクは、たぶん幸せなんだ。

この8年間のボクの写真には、1枚も、怯えて泣きそうな目をしたボクはいないから。

飼い主は、世界のあちこちに、泣きそうな目をした犬がいること、その犬は生きるしかなくて生きている…ことが耐えられないからこそ…息子のような分かりやすい純粋な愛情たっぷりの態度ではなく、どこか事務的な世話の仕方で、ボクを大切にしている。

めちゃくちゃ可愛いと抱き締めてはくれないし、車の中が犬臭いわなどと不愉快なことしか言わないが、飼い主は、表向きボクの世話を生活の単純なルーティンとしているのは、不幸な犬の存在を常に意識しているから…例えば、実家の近くに、ただ繋がれたままの犬がいたことも、いまだに忘れられない。





ケチな飼い主も、戦禍や災害地にいる動物たちのための募金は惜しまない。

「人には、人がいる。

人には力があり、手段があり。

だが動物は違う。



ただ、人は、余計なものを持っている。

ネグレクトとか。」



女々しい息子が、飼い主とボクがセットで行動するのを、あと何年見られるかと心配していた。

ボクの人生は半分過ぎた。

その時がきて、飼い主が普通に泣かなくてもかまわない。

ボクは忘れないようにしよう。

飼い主がボクを撫でるときは、ボクに対してが9割で…あとはどこかに、悲しい犬の分があったんだと思いたい。