dマガジンで「婦人公論」を読んでいた飼い主。
阿川佐和子さんのエッセイに目を留めた。
【歯より始めよ】という題名で、阿川さんが2年半ぶりに歯医者に行ったことが書かれている。
日頃、周りの人たちから、歯のメンテナンスの大切さを説かれても、なかなか歯医者には足が向かず、ずっとご無沙汰していたが、昨年末歯の痛みが増して、いよいよ行かねばと思い、一大決心をして…。
かなり前にカバーをした歯の内側に、小さな虫歯が発見され、治療することに。
その治療のみならず、この先メンテナンスのために通うことになろうが、気持ちを奮い立たせるために、入れ歯を外したときの両親の老人顔を思い出そうとの、健気な決意が書かれていた。
ボクは、口の周りを触られるのは嫌だ。
ましてや口の中をあれこれいじられるなんて。
考えただけで痛そうだし、被毛で見えないが鳥肌がたつ。
人間だって、歯医者が好きだなんて人はいないだろう。
読み終わると、飼い主が言った。
「思い出すわ。」
飼い主が過去を語るときは、いつも良からぬ思い出と相場が決まっている。
「もう10年になるのか。
京都に住んでいた娘が、こっちに引っ越してくるとき。
私は、勤め先を早退して、2泊3日で引っ越しの手伝いに行った。
それは7月16日の夕方遅く。
京都に着いて、娘と落ち合って、駅界隈で夕食を食べていたとき。
口の中で、ゴリッと音がして、食べているものに混じって、何か硬い物を感じた。
歯の詰め物が取れたんだと分かった。
急いでナフキンの上に吐き出して。
あまりキレイとは言えない銀色のギザギザしたもの。
舌で恐る恐る口の中を確認したら、左下の一番奥の歯に、大きな穴があいているのが感じとれた。
よりによって、こんなところで!
その日は京都に着いただけで、明日は一日きっちり働かなければならないのに。
最悪だ、出先でこういう目に会うなんて。
なにより、ものを食べるのにいちいち厄介だ。
穴にカスが入る、しみる、舌を痛めそうだ。
こんな状態ですごすのかー。
せっかくの夕食も、噛みづらくてすすまず、味わうどころじゃない。
詰め物を飲み込まなくてよかったと思っただけだ。
夕食もそこそこに、娘のマンションに行き、私は猛然と前倒しで引っ越しの準備作業をした。
といってもまあ、一人暮らしの所帯のものだから、荷物の運び出しから逆算していけば、おのずと優先順位が決まり、割合早くまとめることができた。
その夜は、床に積み上げたダンボール箱に囲まれて、こたつ布団やクッションを敷いて寝た。
いよいよこの部屋を去るんだなあと感慨深かったよ。
静岡から京都に引っ越したのは、3月のお彼岸の頃。
娘と新幹線に乗って、昼前にここに着いた。
手荷物で持って来たのはトイレットペーパー1個だけ。
何もないガランとした部屋で、荷物が届くまで、床に寝転ばっていた。
新幹線で読んでいた新聞を掛けてね。
午後に時間指定したものが次々に配送されてきた。
布団、大型家具、電化製品。
都市ガスの開栓。
インターネットも今やライフラインだ。
慌ただしく、だけど計画通りスケジュール通り、粛々と物事が運んで、気持ちいいくらいだった。
新生活の支度の3月は、肌寒くも桜の季節になるところで、京都に住むということが自分のことのように嬉しかった。
それが、今回はどうよ、と比べてしまったわ。
今度は、1分でもエアコンを止めたら、或いは1歩でも部屋の外に出たら死んでしまいそうな、酷暑のさなか。
京都の暑さは殺人的だ。
しかも、着いたとたんにトラブルに見舞われ。
翌朝9時、近くの歯科医院に電話した。
事情を話し、なんとか午前中の予約に入れてくれるように頼んだ。
一応来てみてくださいとのこと。
その歯科医院は娘の部屋からは歩いて5,6分の、本当にありがたい場所にあった。
街なかのビルの一部屋の医院だから、驚くほど小さかった。
待合室は、3人くらいしか座れない。
だが診察室は、もっと驚くほど、いや小さいんじゃなくて、清潔だった。
椅子に座っただけで安心できたよ。
私は、電話で告げたことを、今度は直接先生に訴えた。
「そういうわけで、このまま歯に穴があいたままにしておくのは不安なんです。
仮詰めというんですか、とりあえず応急処置をしていただければ、と思って。」
先生は、もちろん嬉しくはなさそうだが、ではやっておきますけど、お住まいのところに帰ったら、すぐにかかりつけの歯医者さんに行ってくださいね、と言ってくれた。
わりと若い先生だった。
先生は、こう付け加えた。
「なるほど、お嬢さんがこの近くにいらっしゃって、それでここにね。
祇園祭を見にいらしたんでしょう?
まだ山鉾巡行には間に合いますよ。
10時半までには四条に行けますよ。」
私は、思いがけない言葉に、口をあけたまま、
「アイ」と答えたわ。
頭の中では、「ホーリャラクテ、イッコヒ、ランレス」
(そうじゃなくて、引っ越しなんです)
と思ったが、その誤解のおかげで、飛び込みでも早く診てもらえたんだ。
祇園祭のために遠くからやってきて、直前にこんな目にあっている、可哀想な旅行者という…。
そうよ、祇園祭!!
それを見ずしてどうする!!
引っ越しの作業は、大方目処が立っていて、私には初めての、せっかくの祇園祭に駆けつけた。
私と娘は、タクシーで四条に近いところに。
予想通りの人出。
私らは、大丸の前に陣取った。
暑かったらすぐに涼みに入れるし、トイレもあるからね。
それで、初めて見た山鉾の列は、豪華絢爛、見事なものだった。
西洋のタペストリーみたいな、大きな織物が掛かっていたり…
ああそうそう。
それは、この間読んだ、原田マハの「異邦人」という小説の一場面に出てきた…。
巨大なカマキリが乗ったのとか。
懐かしく蘇ったよ。
詰めかけた人々の間から見た行列は、ありきたりだけど、時代絵巻だったね。
それに比べて、いつかの葵祭、あれはひどかった。
街外れに近い、すいてる場所で行き合った行列は、やる気のないアルバイトばかりか?と思うほど、ダラダラしていた。
沿道には外国人もいるし、私だって新幹線代をかけて見に来たのに、あれにはガッカリしたわ。
京都三大祭りの一つとは思えないよ。
もう行かない。
それにしても、やっぱり暑かったなー。
夏に京都なんて、行くもんじゃない。
あの日、口の中は、仮詰めしたものの特殊な匂いが気になって、余計に辛かった。
歯の穴をふさいでもらって文句は言えないが、食欲はなくしたね。
まあ、そんなこんなで無事に引っ越して、娘はこっちに戻った。
以来、祇園祭はテレビのニュースで見るだけだ。
そして、京都といえば歯医者、歯医者といえば京都。」
いやはや。
飼い主は、前にも、京都に向かう朝、猿に出会って踏んだ急ブレーキで、目に結膜下出血をおこし、京都に着くやいなや、眼科に飛び込んだんだ。
血糊べったりみたいな目を隠すためのサングラスを買うハメになってさ。
さて飼い主は、歯医者が嫌いなくせに、ふた月に一度通っている。
歯の掃除というものをするらしい。
乱杭歯の飼い主は、
「この年になったら、歯列矯正とか美白とか、見た目はもう諦めた。
それよりも、歯周病が進行するのを防ぎたい。」
歯の掃除なるものをこまめにしておけば、何かいいことがあるのか?
「いいというより、悪くないだろうが。
定期的にメンテナンスすれば、機械が長持ちするのと同じだ。
歯医者に行かなくてすむように、今歯医者に行っているんだ。」
そうですか〜。