飼い主は、せっかく快方に向かっていたギックリ腰が、振り出しに戻りそうだった。

ただでさえ、腰の筋肉が緊張し、体の中心部がギクシャクしているのに、その電話がまさにギックリ腰の異名【魔女の一撃】と同じだった。








「○○が亡くなりました」








自分の夫の名前とその死を告げる、事務連絡のような電話には、先方の悲しみは一切漏れ感じられず、耳に入れた飼い主の方に、まるで新幹線にでもぶつかったような衝撃を残し、受話器を置いた時には、涙が溢れ、腰からつま先への鋭い痛みが走った。




飼い主は、しばらくの間体の痙攣が収まらず、ギックリ腰の直後のように、電話台に指先だけの力でつかまり、不整脈で脈が大きくとんだのを感じていた。




亡くなった人は、ボクんちからすると3代前に親戚となった関係の家の当主で、飼い主より2歳下だ。普通なら遠縁の範囲に当たるが、田舎では、血が濃い薄いよりも、近くに住んで付き合いがある方が、【親しい親戚】になるのだ。





飼い主らとは、結婚したのも子どもが生まれたのも同じ時期で、ちょくちょく行き来し、互いの家で冠婚葬祭があればもちろん親戚として招き合い手伝い合い、地域の行事や役員で一緒になり、そうして同じように暮らして同じように年を取ってきた。




「だから、あと20年もしたら、同じように老人になって、誰彼か順番はどうでも、世の常として、残っている者が互いを見送ることになろう」

飼い主は、その人に限らず、ご近所さん、周囲の人みんなに対して、当たり前にそう思ってきた。




「だが、最近は、番狂わせばかりではないか!」





飼い主とも気が合った夫の幼なじみも、今春、先に逝ってしまった。








ボクは、散歩コースの途中で、村の共同墓地の脇を通る。

「北向きのお墓なら、富士山に向かっているから羨ましい。

我が家は南向きで富士山に背を向けているから、【死んでもここは嫌だ】」

飼い主は、そんなことを言いながら、林立する墓標と、彼方でそれを見下ろす富士山とを、よく眺めている。




「この地に嫁いで約40年。

知り合いの塔婆もたくさん増えた。

子どもの同級生のお母さん、一緒に少年野球の応援に行った。

あれは、忘れもしない8年前の、京都の葵祭の日。

沿道で葵祭を見ていたその時、電話をもらったんだ。




娘が産まれるとき、同じ産院に通っていて、励ましあった人…もう何年経つか。

初盆の前、墓地に来たら、旦那さんがお墓の石段に座っていて…お線香をあげさせてもらったら、すごく喜んで、思い出話に笑ったりして。

朗らかだったからな、△子さんは。

今では、その娘さんにお世話になっている。




ご近所でも、勤めていると顔を合わせる機会はあまりないけど、何やかや、村のことで集まったあの人この人。

二人とも、60そこそこでいなくなった…

男手をなくした家は大変だろう」








「挨拶をするのが、生身の人間でなく、木の板でできた塔婆とはね」







飼い主は、思う。
「終活ということが一般的になって、自分もまずは片付けと思ってやっているが、そんな優雅な準備すらせずに急かされて旅立ってしまった人々。



60代どころか、もっともっと若くしてあの世に行ってしまった人は、いくらでもいる。



自分は今60代。
普通に考えて、人生の残っている時間の方が短い。
自分が、これから先に望むことは何だろうか。



毎週、イタリア番組を観ていると、人が亡くなることを、【天に召された】という。
天からの、お呼び出し。
あれは、いい表現だ。
自分の目の前から愛しい人がいなくなる図には、むこうに神様という第三者が存在している。
キリスト教云々ではなくて、安心できる第三者のおむかえという心強さがある。
それは残された者に、納得できる悲しみを置いていくんだ。



番組で何度もそう思っていても、自分はまだ60代で人生を閉じることは考えていないし、自分が名前を知る近しい人がいなくなることも考えない。



いずれ確実にその時は必ずおとずれる。
だが、60代で終わるのは、寂しすぎる。
すぐ明日のことじゃないか。



子どもに残してやれるものもない。
自分が、子どもを残していいのかという、憐れな疑問のみよ」







飼い主。
ボクは飼い主の還暦の記念に迎えられた、「飼い主が幸せにしてあげたい最初で最後の犬」と聞きました。
飼い主が60歳になった時から、ずっと一緒です。
共に生活してきてつくづく思うのは、飼い主にはまだ生きる力はありますよ、知恵はないけど。
ボクも幸せにしてもらっていません。



60代で人生を終えることの悲しさを考えることで、自分に手錠をかけてはいけません。
飼い主は、今はショックでしょうけど、人生のひとコマが過ぎたら頑張らねば。
最低ボクを見送るまで、苦労しなくてはなりません。



人生には色々な幸不幸があると、いつも言ってますよね。

 

子どものことは、まあ、お金以外は大丈夫です。
だって、飼い主自身が、自分の親をどう見ています?
案外、【遠い親戚】みたいにドライになったりするじゃありませんか。
なるようになるし、なるように導かれると思わないと。
自分はもう、子ではなく親なんだと。



60代は、モノ減らしはいいけど、人生仕舞いを考えすぎると、無いに等しい頭も、生ける細胞はゼロになります。



お葬式は、数日後。
杖無しで参列できるように、悲嘆にくれてばかりいないで、婆様を見習いましょ。








婆様は、先日飼い主に言った。
「私なんか、もういなくたっていい人間なんだからッ!」と息巻いて、周囲に不快千万のタネを撒き散らし、そして定刻通りに台所に来て夕飯を食べていた。
あのぐらいの境地にならないと、人生100年時代、飼い主、しみじみと油断していると婆様に居場所を乗っ取られますよ。






(入る場所探し)