(2016年4月10日)

 ハッキリしたことは忘れたが、1990年前後のことだったと思う。
 秋も肌寒さを感じるようになった頃、知人の建前の手伝いに行くと、木造2階建ての大きな家の柱は、20㎝はあろうかと言う太い角柱だった。
 私は建前の手伝いと言っても初めてのことで、何をして良いかも分からず、聞くにしてもほとんどが見知らぬ顔でままならなかった。みんなにヘルメットと軍手が渡された。
 私は何かをしたという明確な記憶がない。酩酊した翌日の記憶のように、切れ切れなものが残っているだけだ。その1日はぼんやりしている。
 背は高くはないが、がっしりした、がたいの良い爺さんが、30mほど離れた材木置き場から、身長の倍の長さはあろうかと言う太い角柱を1人で肩に担いで運んでくる。運んでくると、ほぞを合わせて南面の土台に立てていた。敷地の真ん中辺からそれを見ていた私は、それを真似ようかと思ったが、1人で運ぶ自信はなく、さりとて手伝って2人で運んだら、折角の爺さんの活躍の場を奪うことになるとの変な気を遣い、気づかぬ風を装った。
 たまに雨粒が頬に当たり、天気の崩れを心配させたが、寒くて身体を縮ませて佇んでいると、突然後頭部に衝撃を感じた。縮ませた身体を釘に見立てて、大きな槌が振り下ろされた。一瞬、背骨が音を立てて縮んだ。被っていたヘルメットが2、3m吹っ飛んだ。
 爺さんが立てた柱の1本が倒れて、私の頭を直撃したのだったが、私は2、3歩蹌踉けはしたものの、怪我1つしなかった。私は飛んだヘルメットを受け取り、頭に載せると、締めなかった顎紐を今度はしっかり締めた。
 職場の先輩が一緒だったが、その時先輩は「終わった」と思ったそうだ。救急車を呼び、病院へ行き、会社へ連絡し、長い間廊下で待っている、そんな慌ただしく面倒なことどもが頭の中を駆け巡ったそうだ。
 顧みれば、先輩ではなくても、ヘルメットをしていなかったら、頭蓋骨が割れて大変なことになっていただろう。ヘルメットを被っていても、しゃがんでいたら打撃はもっと強くなって頸椎でも損ねたかも知れず、直撃が身体の他の部位だったら、怪我を負ったかも知れない。私は、柱がヘルメットに正確に当たるように、柱の倒れてくる真下に、真後ろを向いて待ち構えていたことになる。考えてみれば、不幸中にいくつもの幸いが重なっていた。
 このように偶然が度重なると、単に偶然では片づけられずに、つい見えない大きなものが存在し、働いたと思ってしまう。信仰が厚かろうが、薄かろうが、ゴリゴリの唯物論者以外は多少なりともそういう傾向があるだろう。
 見えない大きな存在は、私の場合は神であったり祖霊であったりするが、人それぞれによって捉え方は違う。1番厄介なのが、悪魔・悪霊の手合いだろう。欲望の達成が行動の目的であり、エネルギーとなっている。この点は単純明瞭なのだが、愛がない故に邪悪である。
 昨今、天国行きや極楽行き、現世利益の霊験を謳った宗教ばかりであるし、それに惹かれて信徒になるか、祈る者ばかりだが、これなど宗教の役割不足並びに無価値性までを端的に物語るものだろう。勢い、宗教離れが進むか、悪魔崇拝へ近寄るかだが、前者は健全な兆候だとしても、後者は破滅的だ。

 シャンティ・フーラの時事ブログ2014/10/31 9:30 PM
『[YouTube]暴露!ディズニー映画に隠されたイルミナティ&悪魔崇拝&セックスシンボル 〜大量に仕込まれていたサブリミナル〜』

 悪魔崇拝への接近は、ディズニー映画などによって既に子供の頃からサブリミナル刺激されて馴染んでおり、効果が現れ個人に偏執が生まれれば、後は秘密結社を通じてなされる。溝は切られできあがり、人の転落を今か今かと待っている。
 忌避されるべき変態行為が、あからさまに見本のように提供されて、当然のようになされるようになる。手淫・口淫・男色・獣姦・強姦・乱交が頻繁に扱われ、抵抗なく受け入れられるように誘導され、マニュアル化され浸透してゆく。こうして、一般市民が知らず知らずのうちに、悪魔崇拝儀式に手を染めてゆく。
 『宗教学(初級267):神智学(マリアとシグルン) 〜 竹下雅敏 講演映像』
 ナチス・ドイツにおいて、ハインリヒ・ヒムラーは「秘密結社SS血のドイツ13騎士団を創設し、ヴェヴェルスブルク城をその精神的中心にしようと考えた。ロンギヌスの聖槍もここに安置し、地下聖堂で儀式を行った。そこには外部から2人の強力な霊能力者が参加していた」この2人の霊能力者がマリアとシグルンで、霊能力のために悪魔崇拝儀式を行い、生きた人間を貪り食うまでになった。
 秘密結社の高位階ではおぞましい生贄(人間)の儀式が行われ、恐怖の極みを味わせた人間の生き血を飲んだり、肉を食べたりする。生贄の多くは、小児性愛の対象でもある、赤ん坊だったり、子供だったりする。

「キルケは魔女であることは分かります。ただ、私たちが通常魔女でイメージするのは、非常に歳をとったお婆さんで帽子を被っています。ワルプルギスの夜とかいって、魔女が集まる集会があるんですけれども、イメージとしてはこんな感じです。
けれどもキルケは16歳から20歳ぐらいの若い女性で、それが絶世の美女に変身して誘惑をするんです。だから、同じ魔女でもイメージが違う。このお婆さんの魔女のイメージはどこから来るのか」{シャンティ・フーラ:教育プログラム(14):闇の者たち(キルケ)より}

 上記講義を試聴したとき、悪魔に魂を売ると言うが、悪魔が欲しがるのは“若さ”だと思った。小児性愛の被害者は急激に大人びるし、悪魔崇拝者は若さを保つという映像をYouTubeで前に見た覚えもあった。
 マリアとシグルンは悪魔崇拝儀式を行ったために、霊能力は得たかも知れないが、エーテルダブルは化け物になってしまった。その姿は写真に撮られている。さらに、生き血を飲んだりすれば、死後魂は霊界には入れない。
 霊界は4.0次元以上だから、悪魔崇拝者は死後、ハイアラーキーの棲む低層4次元(3.0~3.9次元)に棲んだり、レプティリアンは地獄(2.70~2.77次元)を乗っ取りそこに棲んだ。もうハイアラーキーもレプティリアンも消滅し、悪魔崇拝者の魂も消滅するから、以前のようには行かない。魂がないから輪廻転生はなく、肉体の死は以後の無を意味し、完全消滅である。竹下雅敏氏も言うように、輪廻転生を苦、そこからの脱却を涅槃と捉えるようなら、願い通りになったわけで、ある意味預言していたことになる。

「南伝のパーリ語教典を訳した中村元はダンマパダ、第十章、「暴力」、百三十四節の訳注において『安らぎ - Nibbāna(= Nirvāṇa 涅槃)声を荒らげないだけで、ニルヴァーナに達しえるのであるから、ここでいうニルヴァーナは後代の教義学者たちの言うようなうるさいものではなくて、心の安らぎ、心の平和によって得られる楽しい境地というほどの意味であろう。』としている」(Wikipedia『涅槃』より)

 ニルヴァーナの解釈は、中村元氏の言うように心の平安によって得られる楽しい境地だと思う。心の平安を保つことが、日常生活上いかに困難か、ほとんどの人が、毎日を幸福に送る実感のないことからも分かる話だろう。
 逆に考えれば、毎日が幸福な実感があれば、ニルヴァーナに到達したことになるが、それへの前段階として心の平安があり、またそれへの準備段階として心の浄化がある。
 浄化法のうち、最初に行うべきことは、禁戒・勧戒の実践だろう。ヨーガ行者の入門者が最初に与えられる修行法でもあった。禁戒・勧戒を守れば徳を積むことができ、体表の5つのチャクラの放出と吸収を浄化することができる。一挙両得とも言えるこのような戒律が、他にあるだろうか。
 そして、何といってもガヤトリー・マントラ。心身の浄化はもちろん、口にする水や食物の浄化までこなせる。今まで浄水器の水は完璧なものと思っていたが、『マイクロ波と水と-99』で既述したように、情報汚染した死んだ水だった。その死んだ水が、ガヤトリー・マントラを唱えると生き返るのだ。試しに飲み比べてみて欲しい。人間ができる物質的な浄化が、霊的な浄化でこれほど変わるのかと思えるレベルである。そのほか、あらゆる祈りに使える万能のマントラである。
 いくら物質的に恵まれても、それほど幸福を招かないことが認識されてきた。幸福になるには、心身の浄化によって自分の波動を上げることである。上がった波動が高ければ高いほど快さは上がり、サハスラーラに至れば母の胸に安らぐ赤ん坊のように大いなる至福感に満たされるだろう。