江戸時代から武士の基本教養として朱子学が採用されるようになったことを見てきたが、それ以前はどうだったのか。
武士政権下で朝廷中心の支配体制を復活させようとした後鳥羽(ごとば)上皇は、1219年に3代将軍・源実朝(さねとも)が暗殺され、有力な将軍が不在となった機会を得て、鎌倉幕府の執権として権力を握る北条義時(よしとき)の追討令を1221年に出し、承久の乱が始まる。これまで歴史上朝敵になると勝ち目はなく、鎌倉の御家人に動揺が走るが、御家人を集めて北条政子が亡き夫・源頼朝(よりとも)公の御恩は山より高く海より深いと諭(さと)し、その御恩に報いる奉公を今こそ示すときだと奮起を促して御家人の結束を固め、絶無だった朝敵に初めての勝利を齎(もたら)す。
北条政子
・無意識レベルのカルマ
1157年03月18日(0歳)ー9(神的レベル)
1198年8月16日(41歳)ー5(人間レベル)
1209年8月16日(52歳)ー-2
1220年8月16日(63歳)ー1(動物レベル)
・独り善がりー2(動物レベル)
・向上心ー4(人間レベル)
・意識の進化段階ー0.3(第1システム国津神第5レベル)
・モナドの存在位置ー同上
・精神年齢(満68歳)ー70歳 →IQ103(平均)
頼朝が没するのが1199年2月9日で、その半年近く前に政子のカルマが重くなっているのは、政子が不正に幕府政治に関わり北条氏の勢力を拡大したからであり、後に出家した身でありながら政治に関わったからである。
以下○×の文はそれぞれ「」内を範囲指定し、眉間の先10㎝くらいの、体外のアージュナー・チャクラに焦点を合わせて確認できる。これも言霊のある日本語だからできることで、読者の中には、普段の読書の最中に文章の感想のみならず、無意識的に「文」の○×を確認して感じている人がいるかも知れない。
○「北条政子(1157年3月18日ー1225年8月16日・尼将軍)のカルマが1198年8月16日に重くなっているのは不正に幕府政治に関わったからである」
×「北条政子(1157年3月18日ー1225年8月16日・尼将軍)のカルマが1198年8月16日に重くなっているのは不正に幕府政治に関わったからではない」
○「北条政子(1157年3月18日ー1225年8月16日・尼将軍)のカルマが重くなっているのは出家した身でありながら幕府政治に関わったからである」
×「北条政子(1157年3月18日ー1225年8月16日・尼将軍)のカルマが重くなっているのは出家した身でありながら幕府政治に関わったからではない」
1242年に即位した第88代後嵯峨(ごさが)天皇の、第3皇子第89代後深草(ごふかくさ)天皇の子孫である持明院統(じみょういんとう)と、第4皇子第90代亀山(かめやま)天皇の子孫である大覚寺統(だいかくじとう)との間で、後嵯峨天皇の「幕府の意向に従うように」と言う遺言もあり、両統迭立(りょうとうてつりつ)の皇位継承が行われるようになる。
五辻忠子(いつつじちゅうし)は公卿五辻忠継(ただつぐ)の側室だったものを、第91代後宇多(ごうだ)天皇が浅はかにも横恋慕して、忠継の娘となし更に内大臣花山院師継(かさんのいんもろつぐ)の養女として自分の後宮に入れたが、悪いことはできないもので、忠継の子を懐妊しており後の祭り。
○「五辻忠子(1268年ー1319年12月27日・後宇多天皇の後宮)は五辻忠継(不詳ー1277年8月20日・公卿)の側室であったが、天皇の横恋慕で天皇の側室となったのである」
×「五辻忠子(1268年ー1319年12月27日・後宇多天皇の後宮)は五辻忠継(不詳ー1277年8月20日・公卿)の側室であったが、天皇の横恋慕で天皇の側室となったのではない」
『この武将-487』(2022年04月05日)で見た、後醍醐(ごだいご)天皇は天孫系の皇族ではなくスファラディ(正統ユダヤ人)だった原因がここにある。忠継がスファラディだったのである。
○「五辻忠継(不詳ー1277年8月20日・公卿)はスファラディである」
×「五辻忠継(不詳ー1277年8月20日・公卿)はスファラディではない」
後宇多天皇は、実子である第1皇子の第94代後二条(ごにじょう)天皇の系統を嫡流としたかったが、その皇子が立太子後に逝去して、中継ぎに立てた種違いの第2皇子第96代後醍醐天皇が大覚寺統の本流になってしまう。
しかしながら、後醍醐天皇にしてみれば、両統迭立故に我が子に天皇を継がせられず上皇になって院政を敷くこともできないから、不満は拭えず、必然的に倒幕に向かうようになる。
Google検索のAIによる概要によれば、
「後醍醐天皇は宋学(朱子学)に傾倒し、その『大義名分論』や皇帝を中心とする専制君主の概念を自身の倒幕運動や建武の新政の理念として強く反映させました」
宋学を好む側近、日野資朝(すけとも)と日野俊基(としもと)と共に倒幕を謀議するも漏洩、資朝は正中の変で捕まり佐渡へ流罪のち斬首、俊基は釈放されるも元弘の乱で捕まり斬首。
後醍醐天皇
・無意識レベルのカルマ
(前世)
769年01月23日(0歳)ー9(神的レベル)
772年03月12日(3歳)ー-3
784年3月12日(15歳)ー-3(人間レベル)
796年3月12日(27歳)ー-3(動物レベル)
808年3月12日(39歳)ー-3(植物レベル)
・・・・・・
(今生)
1288年11月26日(0歳)ー-3(植物レベル)
1315年3月12日(26歳)ー-3(鉱物レベル)
1323年3月12日(34歳)ー-3(第3エレメンタルレベル)
1331年3月12日(42歳)ー-3(第2エレメンタルレベル)
1339年3月12日(50歳)ー-3(第1エレメンタルレベル)
ーナアマ崇拝
・独り善がりー8(神的レベル)
・向上心ー2(人間レベル)
・意識の進化段階ー0.2(第1システム国津神第5レベル)
・モナドの存在位置ー同上(現在:鉱物システム)
・精神年齢(満50歳)ー64歳 →IQ128(高い)
後醍醐天皇は生まれながらに植物レベル-3の重いカルマ。前世は奈良時代の貴族として生まれており、生まれた769年には宇佐八幡宮神託事件が起きている。
Google検索のAIによる概要によれば、
「宇佐八幡宮神託事件(うさはちまんぐうしんたくじけん)とは、奈良時代の769年、僧・弓削道鏡(ゆげのどうきょう)を皇位につけようとする謀略に対し、和気清麻呂(わけのきよまろ)が宇佐八幡宮の神託(神のお告げ)を正しく伝えてこれを阻止し、皇統を守り抜いた事件です」
皇統を守り抜いたと言うが、時の天皇は重祚した第48代称徳天皇で、第40代天武天皇から9代8名は、
Google検索のAIによる概要によれば、
「天武天皇の系統(天武系)は、奈良時代の称徳天皇の崩御後に天智系の光仁天皇へと皇位が移り替わりました。その後の平安京遷都(794年)以降、歴史書(日本紀など)の編纂や宮中祭祀において、天武系天皇の扱いが政治的な観点から軽視・排除されたとする見方が存在します」
『汚穢への頽廃その7・大嘗祭-313』(2019年11月19日)
<シャンティ・フーラの時事ブログ2019/04/01 10:10 PM
『天皇は北朝が正統であり、天智天皇系で、若干の例外を含むとは言え、天照大神、神武天皇の血を受け継ぎ、南朝は天武天皇の系統で、イスラエルの血筋である』
明治以降、天皇が北朝から南朝に変わったと言われているものの、実際には徳川家の血筋に乗っ取られているように見えます。・・・・・・(竹下雅敏)>
『教授の話-632』(2024年05月16日)
「第40代天武天皇系の七方八代の天皇は、スファラディの血」
道鏡の謀略を防いだものの、既に成り済ましの血統が入り込んでいるのだから、この時点で皇統は守られていない。後醍醐天皇は1308年生まれの護良(もりよし)親王を天台座主にして仏教勢力を味方につけようとしたし、スファラディと仏教は何か因縁があるのかも知れない。
奈良時代の貴族と言っても、3歳から闇の崇拝に堕すような堕落した貴族である。因果は来世に巡る。
後醍醐天皇の即位は1318年だから、天皇になる3年ばかり前にナアマ崇拝に堕していることになる。
ナアマ崇拝では初子(ういご)の供犠(きょうぎ)を特徴としているけれど、後醍醐天皇の初子は既に1306年に生まれており、1315年には側室の初子を供犠している。
○「後醍醐天皇(1288年11月26日ー1339年9月19日・第96代)の初子の生まれたのは1306年である」
×「後醍醐天皇(1288年11月26日ー1339年9月19日・第96代)の初子の生まれたのは1306年ではない」
○「後醍醐天皇(1288年11月26日ー1339年9月19日・第96代)はナアマ崇拝に堕した1315年側室の初子を供犠している」
×「後醍醐天皇(1288年11月26日ー1339年9月19日・第96代)はナアマ崇拝に堕した1315年側室の初子を供犠していない」
独り善がりが神的レベル8と非常に高い後醍醐天皇は、欲望のままに生きてゆくが、それがある程度許されてもいたのである。先の日野資朝と日野俊基のように、後醍醐天皇に忠義を尽くすほど不幸になる。『この武将-487』(2022年04月05日)で一度見ているが、その頃を代表する以下の3武将、敵対する足利尊氏・一時天皇を担ぎ上げるも天皇に裏切られる新田義貞・一貫して忠義を尽くす楠木正成を見れば、一層明確になるだろう。
足利尊氏
・無意識レベルのカルマ
1305年08月07日(00歳)ー9(神的レベル)
1351年12月11日(46歳)ー7
1355年12月11日(50歳)ー-3
1356年12月11日(51歳)ー7(人間レベル)
・独り善がりー2(動物レベル)
・向上心ー9(人間レベル)
・意識の進化段階ー826.8(第9システム超銀河団神第2レベル)
・モナドの存在位置ー同上
・精神年齢(満52歳)ー79歳 →IQ152(非常に高い)
・五行類型論の体型:5▽ー8▽型
○「足利尊氏(室町幕府初代征夷大将軍)の生まれたのは1305年08月07日である」
×「足利尊氏(室町幕府初代征夷大将軍)の生まれたのは1305年08月07日ではない」
新田義貞
・無意識レベルのカルマ
1301年06月01日(00歳)ー9(神的レベル)
1336年12月25日(35歳)ー8(人間レベル)
1338年08月18日(37歳)ー9
・独り善がりー1(動物レベル)
・向上心ー7(人間レベル)
・意識の進化段階ー796.8(第3システム超銀河団神第2レベル)
・モナドの存在位置ー同上
・精神年齢(満37歳)ー61歳 →IQ165(非常に高い)
・五行類型論の体型:2▽ー10▽型
○「新田義貞(鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将)の生まれたのは1301年06月01日である」
×「新田義貞(鎌倉時代後期から南北朝時代にかけての御家人・武将)の生まれたのは1301年06月01日ではない」
楠木正成
・無意識レベルのカルマ
1294年01月13日(00歳)ー9(神的レベル)
1333年11月15日(39歳)ー3
1334年11月15日(40歳)ー8(人間レベル)
1336年07月05日(42歳)ー9
・独り善がりー2(動物レベル)
・向上心ー8(人間レベル)
・意識の進化段階ー831.8(第10システム超銀河団神第2レベル)
・モナドの存在位置ー同上
・精神年齢(満42歳)ー72歳 →IQ171(非常に高い)
・五行類型論の体型:6△ー8▽型
○「楠木正成(鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将)の生まれたのは1294年01月13日である」
×「楠木正成(鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将)の生まれたのは1294年01月13日ではない」
○「楠木正成(1294年1月13日ー1336年7月4日・鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将)は橘諸兄の後裔である」
×「楠木正成(1294年1月13日ー1336年7月4日・鎌倉時代末期から南北朝時代にかけての武将)は橘諸兄の後裔ではない」
武将と言えば、足利尊氏のように五行類型論の体型の1項目に5型がくるのが多いけれど、名乗りを上げて一騎打ちする伝統的な戦いが主流の関東に言えることで、関東ではあるが新田義貞や関西の楠木正成のように知恵と策略の戦いを得手とする者もいる。
新田義貞は越前国藤島(福井市)の灯明寺畷(とうみょうじなわて)にて戦死。
楠木正成は弟の楠木正季(まさすえ)と刺し違えて最期を遂げている。これは、『蝶がてふてふと飛ぶ-725』(2025年12月11日)で見たように三島由紀夫の自決と同様殺されたことになる。
「いざ鎌倉」の元ネタは、室町時代の謡曲『鉢木(はちのき)』に登場する武士、佐野源左衛門常世(さのげんざえもんつねよ)の「もし鎌倉で一大事が起これば、例えこの身は落ちぶれていても、一番に馳せ参じる覚悟がある」と語った台詞やその精神が由来となっている。
3武将の高い意識の進化段階に比べると、後醍醐天皇の低さが際立つ。大義名分論で上下関係を重んじる宋学が無かったら、主従は逆転していてもおかしくない。
室町幕府は徳川幕府のように宋学を教養として採り入れなかったから、下剋上時代の到来を招くことになる。