自分のやりたい事に付いての
大切な視点とは
世間一般で皆周りから
凄いとか偉くて立派だとか
そういう価値基準から見定めぬ事ではないかとも感じる。
それに合わせ過ぎて生きようとする事の意味を考えて見た場合、
周りの意見や視点評定に付いて
過剰なる意識の下で自己律動的な営みの一貫を酷使し続ける事には言うに言われぬ閉塞感を抱かざるを得ないと観ずる。
周りの視線や価値判断基準に照合し得ぬ自己自身に付いての、呵責、過剰なる適合便宜を催すその自己体制的処遇には辟易し
また疲弊し止まぬ。
生来各が皆固有の自己特性が宿り兼ね備わる以上、一律周りに合わせ準ずる生き方自体それも不可能に近いと言えよう。
こんな際に想い心過る
一縷の思念とは
一転して一心に抜け出して見ること。そこより懸け放たれし視点からの自己を考え見つめ直す必要性による逼迫感だ。
本音は何が好きでどういうモノ・コトを好むのが自分なのか、と言う観点も大切に見て行くべき事であろうと願う。
殊に時として、こうした
本心に類する意識の方へと
心の指針を向かわせて歩む決意が必要なのだと感得される。
周りとも違い、そこからは掛け離れた考え方や行き方の方を尊ぶ。それも外為らぬ自分と言うありのままの姿なのだから。
先ず大事にしたいのは周囲の持論も勿論そうであるが、自分自身と言うものが抱き得る考え方意向また感性そして価値観や存在意識等、この自己由来に端を発する己が事を尊重する気概精神性の方ではとも感じる。
それは自己受容性として
自分は自分だと素直に
認める生き方に通じていく。