「百万の軍勢を率いさせてみたいのお」と、秀吉に軍才は豊臣家中随一と喧伝された大谷刑部。

 

太閤亡き後、内府排除を目論む石田三成を諫め、刑部は伏見に残ります。

「殿下は内府を認めておられる。次の天下を担えるのは内府だ。・・・天下は天下のための天下。一家がしめるものではない。人を束ね、世に安寧をもたらす力を持つ者が天下を治めるのだ」

 

内府縁組騒動、七将事件でいくさの回避に力を尽くした刑部は家康から、諸侯との取次を任されます。

「なにより刑部殿に願いたいのは、諸侯との取次。刑部ほど、人々の信を得ている方はおらぬ。・・・人が人を動かすのに弁才も剛力もいらぬ。その者が積み重ねてきた信義、生き様こそ人心を開かせ、動かすのだ」

 

ただ、前田利長らによるとされる家康暗殺計画、宇喜田家騒動を経て、家康が刑部を駒の一つとして豊家を踏みにじっていると思いいたります。刑部は、毛利を取り込み、三成へ「内府ちがひの条々」の草案を送り、関ケ原の戦いへ進みます。三成側をまとめたのは刑部の力が大きかったようです。

 

関ケ原でも刑部の采配は鮮やかですが、相次ぐ裏切りで敗戦、自刃します。

それにしても享年36だったとは、若すぎます。もっと老練な感じがしていましたので。

 

すがすがしい生き様と大局を見据える策略、刑部の素晴らしさを改めて認識させていただきました。