∂『三教指帰』(さんごうしき、さんごうしいき)

空海による宗教的寓意小説に仮託した出家宣言の書。

Lynブログ20200502B

 

                                                                                           

                                                                                                                                                                                                                                                                                   

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∂『三教指帰』(さんごうしき、さんごうしいき)は、空海による宗教的寓意小説に仮託した出家宣言の書。

∂「聾瞽指帰」から「三教指帰」へ

序文から、延暦16年12月1日797年12月23日)に成立していることがわかる。空海が24歳の著作であり、出家を反対する親族に対する出家宣言の書とされている。ただし、この時の題名は『聾瞽指帰』(ろうこしいき)であり、空海自筆とされるものが現在も金剛峯寺に伝えられて国宝に指定されている。

その後、天長年間に同書を序文と十韻詩の改訂して朝廷に献上した際に書名を『三教指帰』に改めたと考えられている。

密教学者の阿部龍一は『聾瞽指帰』の改訂には50代になった空海の心境の変化や仏教思想の深化(特に「真言」への理解)を反映させるとともに、社会的地位の変化に伴って『聾瞽指帰』の特に序文に記された当時の律令国家においては反社会的な性格を有する儒教批判・文章経国主義批判を抑制したものになっている(阿部は周囲との対立を乗り越えて仏教を最上のものとして体制の統治イデオロギーであった儒教を捨ててその外側に出る決意を文章にした『聾瞽指帰』の執筆時と、体制の内側において密教の朝廷への導入を進めている中で体制の統治イデオロギーであった儒教との相互協力を打ち出す必要があった校訂及び『三教指帰』への改題時の違いと評する)。

そして、朝廷に献上された『三教指帰』が宮廷で広く読まれたことが『続日本後紀』承和2年3月25日条に記された空海の薨伝から分かる。また、任官試験の1つである対策においても三教の関係について問われる場合も多く、『三教指帰』を読むことは当時の貴族社会においては実用的な意味も有していた。

流麗な四六駢儷体で書かれている。蛭牙公子、兎角公、亀毛先生、虚亡隠士、仮名乞児の五名による対話討論形式で叙述され、戯曲のような構成となっている。

亀毛先生は儒教を支持しているが、虚亡隠士の支持する道教によって批判される。最後に、その道教の教えも、仮名乞児が支持する仏教によって論破され、仏教の教えが儒教・道教・仏教の三教の中で最善であることが示されている。

弁証法的な手法によって、仏教が論理的に称揚されている。日本における最初の比較思想論であり、思想の主体的実存的な選択を展開した著作である。

 

 

                 

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∂三教(さんきょう)とは、中国において、儒教仏教道教の三つの宗教を指して言う用語。 ただし、儒教は宗教ではない考えがある。よって、前段の「宗教」であるという考えには異論もある。

廃仏事件のあった北周の時期より、使われ始める。

廃仏を断行した武帝は、その廃仏断行前から、三教談論を数次にわたって開催して、その優劣を、儒者・僧侶・道士に討議させていた。

この三教談論の慣習は、にまで受け継がれ、形式化したものではあったが、宮中で行われる風が受け継がれた。

また、北周の廃仏に関与した衛元嵩には、『斉三教論』7巻の著作があったことが、『旧唐書』「経籍志」と『新唐書』「芸文志」の子部・道家類に著録されている。

 

 

 

      

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∂儒仏道三教交渉の諸相

三教交渉の研究

班長◆麥谷邦夫

http://oldwww.zinbun.kyoto-u.ac.jp/2004bulletin/p170.pdf

 

 

 中国には、主要な宗教が五つ存在する。儒教、仏教、 道教、回教、キリスト教である。このうち後二者が普 及したのはかなり遅いのに対して、前三者は紀元二世 紀後半からさまざまな形で互いに交渉をもちつつ、中 国の社会や文化に大きな影響を与えてきた。この三者 の相互交渉を称して三教交渉という。

儒教は、孔子によってその基礎が確立された先秦諸 子百家のひとつ儒家に起源する。儒家はもともと宗教 というより学派というべきものであるが、宗族の間の 祖先祭祀や天帝信仰を核とする国家祭祀にかかわる儀 礼を重視していた。漢代に入ると、専制国家を支える イデオロギーとしての地位を確立するとともに、国家 祭祀の主要な担い手としてその宗教性を強めて儒教と 称されるようになった。仏教は、西域や南海を経由し て紀元前後に中国に伝播したと推測されている外来宗 教であり、中国社会に根づき始めるのは紀元二世紀に 入ってからである。道教は、二世紀末に張角や張陵とい った民間の宗教指導者を中心に、古代からのさまざま な呪術や民間信仰を核に形成された教団道教と、秦の 始皇帝や漢の武帝が熱心に追求した神仙術の流れを汲 むものとが、やがて仏教の影響下に独自の教理と教団

『聾瞽指帰』(後の『三教指帰』) は、毛先生、虚亡隠士、仮 名乞児がそれぞれ儒道仏を代 表して議論を鬪わせ、仏教の 優位を説き明かす書。若き日 の空海の代表作。

組織を形成してきたものである。この三者には、仏教 が明確な教祖を有するのに対して、儒道二教は明確な教 祖をもたず、中国古代の思想・信仰や習俗などをもとに 徐々に歴史的に形成されてきたという違いが存在する。

三教の争い

高度の文明社会を築いていた古代中国に、外来宗教 である仏教がもたらされたとき、そこにさまざまな摩 擦が生ずるのは避けがたいことであった。仏教が当時 の中国人に与えた最大の衝撃は、三世応報の輪廻の思 想であったといわれる。しかし、より具体的な問題と して仏教批判の的とされたのは、僧侶の出家、剃髪の 制であった。儒教の教えでは、子の親に対する最大の つとめは、親が生きている間は親への孝養を尽くすこ とであり、親が死んだ後は祖先としての祭祀を欠かさ ないことであった。仏教僧侶の出家の制は、親を捨て て顧みず、子孫を残さずに祖先祭祀を絶やすことにほ かならないと考えられ、儒教の教えを根本から否定す るものと非難されたのである。また、儒教の重要な徳 目である「孝」を専らに説く『孝経』の冒頭には、「身 体髪膚、之れを父母に受く。敢えて毀傷せざるは、孝の始めなり」とあるように、父母から受けた自己の身 体を傷つけないことは、「孝」の第一歩とされる。仏教 僧侶の剃髪の制もまた「孝」の徳目を根本から否定す るものとみなされたのである。かくして、仏教が中国 社会に根づき始め、中国人の僧侶が増えだした魏晋以 降、この二点に対する儒教の立場からの激しい攻撃が 仏教に加えられるようになる。

さらに、僧侶が日常的に朝廷に出入りするようにな ると、世俗の権威を認めず仏のみを唯一の帰依対象と する仏教は、僧侶が親や皇帝を拝礼すべきかどうかと いう問題をめぐって、皇帝を頂点とする儒教国家体制 との間で激しい軋轢を生じ、「僧尼不拝君親」の論争 を闘わすことになる。また、次第に力をつけ始めた道 教の側からは、中華の聖人の教えを信ぜずに、夷狄の 教えである仏教を信奉することの非を弾劾する「夷華 論」が南斉の顧歓によって著され、仏教徒との間に激 しい論争を捲き起こした。この他にも、神(魂魄)の 不滅と転生を説く仏教に対して、儒教の立場からそれ を否定する范 Cの「神滅論」をめぐる「神滅不滅」の 論争が著名である。

三教論争の記録

こうした三教の間の論争は、魏晋南北朝から隋唐に かけて何次かの高潮を重ねつつ絶えることなく繰り返 されてきた。長期にわたる三教論争の経過を仏教擁護 の立場から最初に記録したものは、梁・僧祐の手にな る『弘明集』十四巻である。唐代に入ると、道家の祖 とされる老子(李耳)と同姓である唐王室は、老子こ そみずからの祖先であると唱えて道教庇護の姿勢を見 せた。これを契機に、王室の庇護を背景に勢力を拡大 しようとする道教側とそれに危機感を募らせた仏教側 との間の論争が一気に激しさを増した。そこには、教 義に関する真剣な論争から単なる誹謗中傷、揚げ足取 りに類するものまで、ありとあらゆる論難が見出され る。唐の道宣が、『弘明集』の後を補うものとして『広

弘明集』三十巻と『集古今仏道論衡』四巻を、同じく 玄嶷が『甄正論』三巻を、同じく法琳が『弁正論』八 巻と『破邪論』二巻を編んで仏教擁護の立場を発揚 し、この時期の三教論争の様相を伝えているのは、か かる歴史的背景によるものである。これらはいずれも 仏教擁護の立場からの偏った記録であるという制約は あるが、今となっては貴重な資料であることに違いは ない。本研究所における三教交渉の研究はこれらの資 料の会読からスタートしたのである。

三教交渉から見えるもの

三教交渉の過程は、互いを非難しあう論争ばかりで あったわけではない。とりわけ道教は仏教教理の多大 な影響を受けて自己形成を遂げてきたのであるが、仏 教もまた儒教や道教の影響を受けて、インド仏教とは 似て非なる中国仏教へと変貌してきたのである。この 過程で、互いに相手のどのような部分を受容し、どの ような部分は受容しなかったのか、その結果、それぞ れがどのように変容していったのか。その過程を分析 することによって、ふたつの大きな文明それぞれの本 質を明かにする手懸りが得られよう。この研究班の目 的は、上記の三教論争関係の資料をはじめとするさま ざまな資料をもとに、三教交渉の諸相を分析すること を通じて、中国の思想・宗教ひいては中国文化そのも のの本質がいずこにあるのかを明かにすることである。 このような作業の先には、中国を経由して仏教を受容 してきた日本文化の本質もおのずから垣間見えてくる に違いない。本研究所では、これまで長期にわたって

『弘明集』や『広弘明集』などの会読を進めてその成 果を世に問うてきた。その基礎のうえに、本研究班は 少しく目を道教側から見た三教交渉の諸相に転じ、六 朝隋唐以降現在に至るまで江南の一大道教聖地であり 続けた江蘇省茅山に関わる資料集である元・劉大彬編 の『茅山志』、その巻二十以下に載せられた金石資料 の会読を進めている。

 班員一覧 (班長は除く) ●所内

Esposito, M.、金 文京、小南一郎、

 佐野誠子、船山 徹、古松崇志

●学内

宇佐美文理(文学研究科・教授) ●学外

吾妻重二(関西大・文・教授) 神塚淑子(名大・文・教授) 亀田勝見(福井県立大・助教授)

厳 善0(京都府立大・医・非常勤講師) 古勝隆一(千葉大・文・助教授) 坂内栄夫(岐阜大・教育・助教授) 都築晶子(龍谷大・文・教授) 礪波 護(大谷大・文・教授) 深澤一幸(大阪大・言語文化・教授) 松村 巧(和歌山大・教育・教授) 三浦國雄(大阪市立大・文・教授) 藤井京美(京都女子大・文・非常勤講師)

山田 俊(熊本県大・総合文化・教授) 横手 裕(東京大・文・助教授) 秋岡英行

池平紀子 閻 淑珍(京都大・人環・D.C.) 垣内智之

孫 路易 畑  忍(大阪市立大D.C.) 山田明広(関西大・文・D.C.)

 

 

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