良くも悪くも、多分飲食業を生業にしている限り良くないのでしょうが、今はすっかり外食をしなくなりました。
まだ20代の頃から、そして30年以上前に焼肉竹を本格的に継いだ頃は、県内はもとより、大阪や京都、兵庫、岐阜、名古屋と気になる焼肉屋をカミさんを連れては手当たり次第に食べ歩いたものです。
肉はもちろん、、タレやスープ、サラダ、焼肉屋のレベルが分かるとされるキムチやユッケ、その他諸々の味や盛り付け方、接待、雰囲気、メニュー構成、価格などを、当時は手軽に写真撮影ができる携帯もなく、アナログのメモ書きやビジュアルを頭に焼き付けるようにインプットしたり、ハイクォリティなキムチや一品はそのまま持ち帰りし徹底的に学ばせてもらったものです。

印象に残ったお店はというと、当時、県内で大型店として君臨していた天壇さん。
ここには何度もお邪魔して、人気の秘密を探そうとし、メニューも大いに参考にさせていただきました。
200人ほど入れるであろう満席の店内。
美味しそうに食べる圧巻の数のお客さんの笑顔。
厨房が丸見えで、その中でまるで正確な機械のように俊敏な動きを見せていた板前さんたちの立ち居振る舞い。
大きく心を動かされ、いつか自分もそんな人気店を築き上げたいと夢見たものです。

大箱ばかりではありません。
地元に戻り、近くの同業者のお店にも伺いました。
現在、数店舗ほど構えておられる万葉さん。
はじめの武佐あたりでカウンターくらいしかなかったところにある会社の料理長となる先輩とお邪魔したことがあります。
本場、屠場近くとあり、新鮮なホルモン、中でも衝撃的な旨さのタン刺との出会いは、その後の刺身類の提供を刺激させられました。

次に白鳥さん。
他所には無いフルーティなタレには感動いたしました。
また、家族経営の良さや温かさも感じさせていただきました。




そして大陸園さん。
味噌タレが印象的だったのと、魚介類を積極的に取り入れられてたのが参考になりました。
当時の無縁ロースターを目新しく、おしゃれな店内も目が釘付けになり、一番近くの繁盛店の焼肉屋さんとして、その背中を追ってきた感があります。

さらに一番私の口に合っていたのが近江八幡のまんぷくさん。
甘めのモミダレを受けて際立つつけタレの極小の風味。
あのタレ以上のものに未だ出会ったことがありません。
今はおられませんが店を回しておられたおじさんの全く無駄な動きがなく見えた姿を懐かしく思い出します。

あと頭に浮かんできたのは彦根のちはまさん。
ここは昼間によくお邪魔しました。
階段を登り広々とした2階席。
ともかく韓国料理、特に鍋が美味しかった。
石焼ピビンバを初めて食したのもこのお店でした。
あの頃、普通のピビンバはあっても、県内ではこの店しか石焼はなかったと思います。

他にも数え上げたら切りがありません。
ともかく、今の焼肉竹があるのも、こうした名店に様々なことを教えていただいたからこそです。
どのお店も現在ももちろん、多くのお客様に愛され、バブルが弾け、狂牛病やユッケ事件等々、焼肉屋を襲った大打撃にも耐えに耐えながら、繁盛を続けておられます。
私も負けじと余念なく、これからも精進していくのみです。