仕事がばたついた連休を終え、休日の昼下がり、長浜は茶臼山・竜ヶ鼻古墳に出かけた。




田園地帯、車を止めたいつもの川の畔に降りると、そこに流れる春近(はるちか)川が透き通る静かな水音を立てていた。

いつ来ても初春を思わせる景観。
懐かしい子供時代を思い出す。
素足で入った故郷の小川。
ドジョウやメダカ、小さなザリガニや沢蟹と戯れた遠い日々。
そんな心の清流がここには流れてる。






登山口、秋の草花に迎えられ、小高い古墳の丘の上に立つと、銀色の琵琶湖のラインが仕事で肉ばかり見つめていた目に眩しかった。

清流に満たされた長浜を見渡していると、心地よいそよ風が、5年前の過ぎた秋を偲ばせながら背中の山にへと吹き過ぎていく。





横山城跡へと続く縦走路、整備されてはいるが、流石に夏に生い茂ったままの藪漕ぎを強いられる場所もあった。










人生を慈しむ。
そんな言葉がふと浮かんだ。

家族や自然、仕事、何もかもに感謝し、愛おしむ。

反対に、日々に流されることに危機感を覚える。
なんとなく生きてはなんとなく終わる。

そんな生き様、死に様は嫌だ。

本来の生き方とは乖離した惰性で過ごしやすいのが人の性。
そこには強固なホメオスタシスが働いている。

したがって、大切なことを直感してもすぐに忘れてしまう。
それでは身近な家族や何気ない日常に秘められた深い慈愛を見過ごしてしまう。
それに気づくことこそが生きていく目的なのではないか。




下りに入ると、妙に後ろ髪ひかれる思いがした。
もう一度琵琶湖と長浜、静かに沈みゆく夕陽に照らされた竹生島や遠くの山々にそして夕焼け空を見つめると、両手を拡げて抱きしめたくなった。

大きく息を吸い込み、この世界を自分の中に取り込むように、一体感を感じ、本来ひとつであることを実感したかった。

あまりにも美しいのに、普段、見られないか見ていないこの景観。



少し暗がりが増した山道の所々に差し込む夕陽が、なんでもない道や草を極彩色に光り輝かせていた。
それは目で見える色だけではなく、秘めた見知らぬ色まで滲ませながら。









何度もその心の視点に立ち返ること。

これからも、それを思い出させてくれる山に出かけたい。