脳と心と魂。

 

それらは別々のものなのか。

それとも脳の中、脳幹や海馬に心はあり、ひょっとして魂はこの大宇宙に満遍なく拡がり、あるいはさまよっているのだろうか。

 

いずれにせよ、人の幸不幸を決定づける重要な鍵を握るのは、その中心か中継としての役割を持つ脳である。

 

昨日発表されたブラックホールの初の写真のように、その外観は目でとらえることができるが、その内容や働きは科学のメスを使っても全貌を明らかにすることはできない。

 

これまで次々と見果てぬ夢を、まさか実現するとは思いもしなかった願望を形にしてきた人類は、脳や心についても眼前の俎上に乗せようと様々な試みを続けてきた。

 

ベンサム

 

古代ギリシャのエピクロスを源流とする快楽主義は、近代ではベンサムの功利主義に引き継がれ、人々の行為の原因は快楽を求め、不快を避けることにあるとした。

しかし、ここで疑問に思うのは、人生の目標なり嗜好は、快感ばかりを追求し、痛みを忌避することだけなのか、それよりもっと大切な何かがあるのではないかということである。

 

象徴的な実験がある。

ラットに電極をつけ、電流が流れたときに脳内の快楽中枢を刺激し、強烈な快感を与えるようにする。

実験箱の中のレバーを押したときにそうなるようにすると、複数いるラットは食べるのも忘れ、交尾や他のすべてのことにも見向きもせず、死ぬまでレバーを押し続けた。

人で言えば、薬物やアルコール、タバコなどで強度の依存症患者が陥入る症状である。

ラットと違うのは、それが健康を脅し、静かなる自殺行為であることを脳のどこかで認識していることであり、でありながらも抗しきれないから余計に悲劇となる。

 

これは極端な例だが、快感のみを追求すればゆくゆくたどる道筋ではないだろうか。

 

ロバート・ノージック

 

こんな思考実験もある。

元ハーバード大学哲学教授のロバート・ノージック(2002年逝去)は、ラットならぬ人間の体験装置を創造することを提唱した。

現代的映画館IMAXの劇場型を飛び越え、VR、映画マトリックスさながらの隅から隅までリアリティーを持たせ、ほぼ完全な疑似体験ができる装置を作ったとする。

実際に体験する匂いや皮膚感覚、視覚、聴覚、味覚の五感覚を忠実に再現し、現実との区別がつかない。

しかし、本当の現実は体験装置の電極に繋がれたラット同様である。

ただ脳の中だけで現実そのものの体験が繰り広げられる。

もちろん、自分が実験室にいることすら気づかないで。

 

幸せで裕福な家庭に育ち、尊敬する教師に勉強や人生を教えられ、仲間に恵まれ、燃えるような恋もし、自分が本当に好きでやりたくてたまらない職と立場をものにし、やがて結婚して子宝に恵まれ、毎日毎日、家族団欒の日々を過ごす。

 

人によってそれぞれだろうが、自分が最高に思える人生を思い描き、それをそのまま体験できる装置、それによって最大の快楽を手にして本当に幸福だろうか。

 

一生を、たとえ自分が描いた理想の人生をプログラミングしたデータをダウンロードしたとしても、そしてそれが現実であると信じ込んでいたとしても、外からの観察者の目、神の視点に立てば、ただ眠りこけ、快感を与えるレバーから手を離さないラットそのものの姿がそこに横たわっているに過ぎない。

 

人生を終え、目覚めたときに、それまでの人生体験が全て錯覚だったと知ったら、その時に人はなんと思うだろうか。

あれほど愛した家族や親も、仕事も友人も、何もかもが実際には存在せず、自分が想像の中で作り上げた幻影に過ぎなかったと知れば、その深い落胆と悔恨は計り知れないものがある。

 

体験と快不快は一対である。

脳は現実と想像の世界をごっちゃにし、区別できない。

快不快は幸不幸を揺さぶる。

ならばリアリテイとノンリアリテイは問われることなくどちらでも良いことになるのか。

 

つまり、究極のところ、脳と心と魂の望み得る最高、最良の人生は、脳の中ではなく、どこか他の場所にあると言えまいか。

 

脳の中で快感を経験し、素晴らしい体験を積み重ね、精神も安定し心豊かに過ごせたとしても、それ以上のものがどこかにあるはずである。

そして快楽主義はそういった意味で誤りだと言わざるを得ない。

快楽はそれこそ私たちを麻痺させて、現実を忘れさせ、忘却の彼方へと人生、魂を誘う。