その店のカウンターは無垢の1枚板できていて、所々に節や割れ目が入っていたが、親父さんは逆にそれが気にいっているようでわざと残したんだと言っていた。


親子ほど歳の離れた私に対して、いつも分け隔てなく接してくれていた。

何度か通ううちに、親父さんと女将さんの阿吽の呼吸が醸し出す雰囲気と、このカウンターや壁、天井の材料となった天然木が発する何とも言えないぬくもりに感化され、安らぎを覚えるようになっていった。


客が私1人の時は、親父さんはいろんな話をしてくれた。

いつしか私が焼肉竹のドラ息子だと知ると、八日市新地で商っていた前身である寿司屋の竹には何度か行ったことがあると懐かしそうに語っていた。




親父さんの作る鯖ずしは特にうまかった。

良いネタが入るときには教えてくれて、事前に予約して持ち帰ったものだ。


元は寿司職人あった親父さんは「利は元にあり」が口癖だった。

仕入先では食材を吟味し、より良い品をより安く仕入れるのに並々ならぬ努力をされているのを、共通の仕入れ先で何度かお会いするたびにその姿を拝見しながら勉強させてもらった。


利は元にありの真意は、ただ単に仕入れ先を値切るのではなく、結局のところ、業者との共存共栄を考えた上での適正価格の設定を課し、長期的な展望を見据えていくことだと今は捉えている。

よくも悪くも必ず最後には自分に返ってくるものである。


カウンターの1段高い台には常時様々な逸品料理が幾枚もの大皿に乗せられていて、その中から1つ2つ選んでは、昔ながらの味付けに舌鼓を打った。

特に好きだったのは、ちょっと甘めでからしをつけて食べる焼き豚だった。

独特の味付けで、注文するたびに温めて出されるのだが、溶けた脂の甘みがいい知れぬ旨味を醸し出し、喉を通るときには至福の思いがした。


親父さんもどこか少年のようなところを残していて、ある夜には宇宙の話に花が咲いたり、映画や本の話やもっと子供だった私の問いかけに嫌な顔1つせず答えてくれていた。

若かった頃の武勇伝も話してくれた。

また、孫の話になると相好を崩しながら、自宅に泊まりに来た時にやんちゃ坊主が部屋中を走り回り襖を突き破ったことなどを仰々しく話してくれた。

その孫も今は成人し、ついこの間も私の店に彼女と一緒に来店してくれたことも感慨深い。


雪が降った日は店を閉める。

親父さんは長年徹底してそうされていた。

また、営業時間を厳守され、遅がけのお客さんは断ることも多かった。

不景気だったあの当時、「もうそんなこと言ってられん」と方針を変えて、夜遅くまで店の片隅でBGMの代わりの鈴虫の鳴き声を響かせながら、静かな時間が流れ、木のぬくもりが漂う厨房に立ち続けておられた。


私はそう遠くない自分の姿を親父さんに投影していたのかもしれない。

この道何十年の大先輩を目の当たりにし、その風格と気品に溢れた姿を目に焼き付けられた事は大いなる心の財産となっている。


ある日、親父さんは思い切って店を閉められた。

その時の思いがいかばかりであったかは想像し得ない。

見切りをつけた裏には、親父さんの利は元にありの精神で、適切に判断された事は間違いなかろう。


その少し前から、ボチボチと引退した後にはまだ真新しい店を誰かに貸して細々と暮らしていくんだと言っていた。

そのことも計算して、店の作りは喫茶店でも他の業種でも何でもできるようにしておいたんだとも話していた。


暖簾を降ろされてからあとも偶然仕入先で出会ったことがある。

いつも女将さんと一緒で仲睦まじい姿が微笑ましかった。

しかし、店をされていたときの毅然としたあの姿は影を潜めて、少し元気のないように見受けられた。


親父さんの訃報を知ったのはそれからしばらくしてからであった。

店も壊されて跡形もなくなってしまった。


でもこうして目をつぶっていると、私の中には今もあの店が厳然と心に残っている。

割烹着姿の燻し銀の親父さんの姿、寄り添う女将さんの優しい笑顔。

商売や人生の力強い指針の数々が耳朶を離れない。


「大番」


忘れられない私の名店である。