カントリーロードの歌がいつも響いていた高校の通い道。
オンボロチャリンコ転がして、田園、小さな森の小径、田舎の町を抜けると学校があった。
そうそう、正やんの『置手紙』もよく
口ずさんだっけ。
「君はまだたくさんの紙袋を抱えたままでこの手紙読んでいるだろう」
置き手紙1つを残して一緒に暮らしていた彼女との別れ。
そんな歌詞だったが、何故か当時の多感な少年の心に妙に焼きついて離れなかった。
思い出の詰まった中学を卒業し、これから開かれる人生への不安と希望が入り混じり、したがってさまざまな疑問や悩みの入った持ち切れぬほどの重さの紙袋を抱えていたのだろう。
そんな時、たまたま本屋で見つけた加藤諦三『俺には俺の生き方がある』と言う本を夢中になって読んでいたことも懐かしい。
人生って何?
何のために生きているの?
青春の陰影が深まるにつれ、それまで考えもしなかった根本的な問題をにわかに考え始めていた。
思えば今もほとんど解決していない問いかけである。
というより、大人になってこの歌のサビの歌詞にあるように「今日の淋しさは 風にごまかされていつまでも 消えそうもない」
と、ごまかしごまかし生きている気がする。
でもきっと、そこを避けて決して果実は得られない。
朝日の中を歩きたい。
穏やかな風の吹く山の上で寝そべってみたい。
私の考える幸せなんてたかが知れている。
何もいらないとは言わないけれど、有り余るほどの物やお金なんて、あればあるだけ面倒だ。
小者の自分ほど、もっともっとと増やしたがるに違いなく、不自由極まりない。
生きていく上で、また家族を養えるほどに困らないほどであれば何の不満もない。
さてこれからどうして生きていこう。
ビールは飲めないから、山上でコーヒーでもたてて、小さな自分の町に夢の続きの吐息でも吹きかけてでもするか。
香り立つ春の陽気とともに、何かが見えてくる気がしてる。
もう緑の田園を見下ろす季節に。
登校時間に間に合うように必死に漕いだ自転車を降り、徒歩で路傍の花を愛でられるようになった今こそ。