尊く儚い休日。
軽くも重くもできる一日。
やはり足は山に向かった。
いつもより重いザックを背負い、それに反して心は浮き立せながら、山の懐にへと入って行った。
割と険しい荒神山Bコースの上り。
一歩踏みしめるごとに、無心に近づく。
やがて目的地の東屋にたどり着く。
今日も誰もいない場所からは、いつもなら透き通るような琵琶湖や伊吹山が白く霞んでいる。
もう夕刻なのに、寝る前の早朝の軽食以来、まだ何も食べていなかった。
道中、コンビニで買った弁当を広げながら、なかなか止まらない汗を拭った。
次第に辺りが暗がり始める頃、風がひんやりとし始めたのをはっきり肌に感じた。
この自然との一体感がたまらなくいい。
しかし、山では無心になれる反面、日頃のことをいろいろ考えもする。
生存競争。
飲食店も例外どころか、次々に新しい同業者も現れ、みんな我が店が一番と販促に必死である。
お互いの成長のため、それはそれで良いのだろうが、正直、今はそんなことなどどうでも良くなっている。
そう言うと、語弊があるかも知れないが、勝ったとか負けたとか、あるいは敷衍して格差社会などは、それぞれの立場で思い込み、自ら勝手に作り出したイメージに過ぎないのではないかとさえ思える。
要は自分次第。
これで充分だと自分の仕事や暮らしに納得できればそれで良いではないかと。
幸せは本質的にお金では買えないなら。
さらに言わせてもらえれば、ほとんどの成功者、勝利者が孤立し、何かが足りないと思っている事実をどう受け止められるだろう。
自分に勝つことだ、そんな言い方にも強く反感を覚える。
ありのままでない自分をありのままにすることや本当にしたいことや欲しいものを知ることは、自分に勝つとかそう言う問題ではないだろう。
山を下り始める。
誰が植えたか稜線の紫陽花に顔を近づけると、小さなカミキリムシがこちらを睨んで今にも飛び立ちそうだった。
それでもしがみつくのは、まだ風が足りないのか?
いやいや、調べてみると、紫陽花のおしべの花粉を貪ってるそうだ。
まさに楽園の花園なんだね。
でも、紫陽花の枝の表面を囓り、時に幹内まで食い荒らすそう。
それで食べ過ぎて飛べなくなってるとしたら、笑うに笑えず、ひょっとしたら紫陽花の報復があるかも知れない。
方や山を貪る親父の頭上を、火ともし頃のせいだろう、まさか人間を警戒してではなかろうに数多のカラスがギャーギャー、あほう、あほうとばかりに喚きながら飛び交っている。
映画『バード』ではないが、一斉に飛びかかってきたらどうしようかと一瞬本気で身構える。
この世を見間違う景色を後に登山口に戻る。
車を走り出してすぐ、これこそこの世とは思えぬほどの美に出会う。
思わず近くのスペースに車を停め、引き寄せられるように優しく懐かしい淡い光に向かって歩いて行った。
橋の欄干にもたれ、しばし見惚れていた。
なんて美しいのだろう。
刻々と変わりゆく色彩やオーラ、雰囲気に個の生命が宇宙生命に溶け込む感覚がした。
これだけで今日、ここに来た甲斐があったと言うものだ。
それから夕焼け空が青く染まるのを横目に黄昏色した田園拡がる帰り道を急いだ。
そして国道に出た。
目の前の交差点を行き交う車のライトがまるで走馬灯のように通り過ぎて行く。
不意に遠い昔の恋人の顔が脳裏に浮かんだ。
どうしてこんな時になのかは分からない。
信号は変わり続ける。
ボヤボヤしてたら後ろからクラクションを鳴らされる。
時の流れの速さを感じさせる、すっかり日暮れた川沿いの道。
年々見づらくなっていく帰り道。
眼鏡の度数を変えなければならないのか。
それとも、目に映るスクリーンを代えるか外すかすべきなのか。
そんなたわいのない事を考えていたら、もう家の近くで最後の信号待ち。
信号は黄色から赤、赤から青、そしてまた黄色へと変わり続けていく。
あ、田舎のここの信号は22時に点滅になり、少しだけ自由を取り戻すのだっけ。
自由、自由。
自由が欲しいと人はずっと昔から叫び続けて来た。
その閉塞感は現代はより激しさを増している。
いったい私たちは何に呪縛されているのだろう。
先の話、やはり、自分の感じ方や考え方にではないだろうか。
意識革命。
本当は人はもっと自由で、時間にも縛られず、永遠の存在なのではなかろうか。
そして日常から遠ざかる山や自然に包まれた時やあまりもの美しさに心奪われた時に、そのことを命の中心にインスピレーションされるように感じる。
無為自然になれた時にはじめて、道はしかと見え始め、そして開けるのだろう。
何も邪魔にならず、交錯せず、フリーの生命。
無碍の境地を逍遥せしめたい。