前回のブログでフランクルやニーチェの言葉を借り、自分がなぜ苦しんでいるのかを知り、苦悩する意味を知ることが重要だと言った。

知ることによって意味付けられると、絶望が希望に変わるということである。

したがって、なぜ苦悩する必要があるのかの答えを見つけ出し納得すると、その度に魂はどこまでも成長できる。

はたして、そんなことで、本当に変われるのだろうか?
というより前に、その手段、前段階としての苦悩する理由付けが果たして可能なのか?
このことを考えてみたい。

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ここでそのテーマをより深めるために、フランクルのもう一つの考え方を紹介したい。

それは生き方を二つの軸に分けた考察になる。
すなわち、市場経済理論に代表される成功か失敗かの水平軸の生き方、これが一つ。
もう一つは哲学、倫理的な絶望か、意味かになる。

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詳しく説明すると、一般的にほとんどの人々が、この水平軸において生きているという。
貧富、勝ち組負け組、名声など、人間の上辺の欲望にしたがって生きてゆくことだ。
それは相対的で、簡単に失うものであり、内面ではなく、外面の事柄である。
多かれ少なかれ、この軸の上を彷徨っているのが現代人といえる。

一方、垂直軸とは、まさに私たちの可能性を見いだせる生き方であり、絶望的になるが、それこそそんな暗闇は最も光に近く、何かをきっかけにして反転し、生きる意味を感じ、充実した生を営める。
内面、心に蓄積するものだから、誰からも何からも奪い取ることができない絶対的な幸福である。

水平軸におけるフラットな生き方では結局のところ薄っぺらな人生に終わってしまう。
その反対に、垂直軸における生き方が出来たなら、絶望し深い所まで苦悩すればするほど振幅が増し、その反動で振動も大きくなり、人生の厚みが増すということなのだ。
深く生きる意味を感じながら生きられるということである。

フランクルは苦悩から目をそらさずに、まっすぐに見つめ、悩み抜くことが、生きる意味を見いだし、本当の生に目覚めることなのだと言っているのだ。

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冒頭の問いである何故苦悩する必要があるのかの答えが見えて来た。
絶望から意味へと生を一瞬にして転換するためだということが。

これは大きな悩みを克服すれば誰でも実感すると思うのだが、この世のあらゆる価値が一気に内面に入ってくるというべきか、その後の生き方にもよるが、たとえば、路傍の花の美しさ、人の優しさ、そしてそれらが自分の中にも既に備わっていたことを知ることができ、その充実感は他のものには代え難いほどである。

空っぽの心は乾いた砂が水をすいこむようにしてすべてを吸収しようとし、飢えた頭は、貪欲に知識や智慧を欲する。
苦悩に打ち克つことによって、絶望から意味を見つけて希望の高みへと登っていける。

決してそれで悟り切り、人生のゴールへ辿り着けるわけではないが、そこからのスタートは、今までと同じ悩みや苦しみが、すべて自分の飛躍へのエネルギーに変えることができる。
宿業や宿命は、福運や使命へと変わるのだ。