幸福は、追い求めるものではなく、気付くことだと言います。

本当の幸福は、何処か見知らぬ遠い世界にあるのではなく、実は身近なところに、あるいは自分の中に存在するのです。

気付かないということは、そばにあるのに意味を持たないものだと言えるでしょう。

意味付けをすることによってはじめて、それが幸福であることに気付くのです。

例えば 、道端に咲いている名も知らぬ花たちは、その名前や由来を聞いた時、また、ポピュラーな薔薇やコスモスなどならその花言葉を知った時に、それまでと違った印象を受けますよね。

その印象は自分の中の心象とも言えるでしょう。

逆に、子供の時や青春時代、または失恋や病などによって絶望する前には何とも思っていなかった花や景色、家族や友人が、突然心の中に意味深く入って来ることがあります。

それは先程の外から心に入って来た情報によって変わるのではなく、自分が変わったことによって意味が変わる、もしくは新たに意味が生まれたと言えます。


つまり、幸福という概念は、情報を介して自分の中で生成されるものなのです。

情報が入って来て心が変化するのは、すべて小宇宙である自己の生命で処理されるからです。

丁度調理師が、食材をチョイスし、それまでに磨いた腕でそれなりの料理を作るように、
あるいは、野球の場合、監督が逸材を見つけ、どのように育てるかは、その監督の資質によって結果が異なります。
当たり前ですが、それらを創作・育成する主体のスキルが違うからです。
スキルとは、この場合、その生命状態・生命力と同義語です。
だから、情報と同じで、それらをどう捉え、意味付け、活かすかが最も肝心なのです。
と言うことは、心理学や宗教で捉えようとした空の存在である心、生命が いかに強靭になり、意味付の働きをするか、そこが幸福を掴めるかどうかのターニングポイントと言えるでしょう。
そして生命力を高めることこそが幸福を生むというより、幸福そのものと言って良いでしょう。

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今朝散歩がてらに行ってきた永源寺ダムの北側にある名滝「識盧(しきろ)の滝」

それが真の幸福の意味であり、最も大きく正しい情報処理なのです。

仏法では、環境を指す「依法」と、私たち自身を指す「正法」 が不二(二つであって二つでない)であると説きます。

言葉を換えれば、客観的実在と主体的存在が乖離した関係で別々ではなく、現実的には密接に繋がっていると言うことです。

「依正不二」の哲理は、主体か無ければ客観はなく、客観を持って主体を作るということです。

観方を変えれば、主体が客観を創造するとも取れます。

その関係こそが情報と言えるのではないでしょうか。

つまり、環境と私たちの間に価値を生み出すものだと言うことです。

当然、情報自体に価値は無い。

主体である私たちが価値を生み出すのです。

価値を媒体する存在としての価値なのです。

価値には正もあれば、負もあります。

それを判断し、咀嚼するのも私たちの生命です。

ここに生命の重要な役割があると言えるでしょう。

環境から主体へ、主体から環境へ、生命から発する情報は永続的に循環して行きます。

そしてその情報を正しく処理すれば、両方を幸福にすることが出来ます。
と言うより、元来、片方だけの幸福はあり得ません。
一念三千の法理から言っても、私達の生命(一念)にすべては相依相関性を持っているのですから。
ちなみに三千とは実在的環境すべてのことです。
この一念と三千が別々では無く、時間的には先後の差も無く、また同時でも無い。
諸法(森羅万象)はそのまま実相(一義的に私たちの生命と捉える)なのです。
浅学を承知で論じますと、生命の十界と、それぞれに具わっている十界を掛けて百界、さらに各々の心身活動の側面を掛けて千界、最後にそれぞれが三世間(一説では、1.釈尊の衆生教化の場所、2.その対照となる衆生、3.仏自身をいう)を具足しているので三千世間となります。

間違った情報処理は不幸を生み出します。
例えばそれは、現在も収束されない原発問題、環境汚染、果てはTPP論戦にも垣間見ることが出来るでしょう。
また、一般的な情報は 回線やチャンネルを通じてコミュニケーションを取りますが、もっと大きな私たちと環境の相互関係は情報を付け加えてこう言えるでしょう。
情報は主体と客観に通う、相互を高めるための生命の通信網であると。

上手く説明出来なかったブログですが、
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今朝行ってきた永源寺ダムの北側にある名滝「識盧(しきろ)の滝」