天の心情を誰が知っていたか | サンクチュアリ伊那教会

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私達は多くの問題を抱えながら生きています。幸せになる為に、人間本来のあるべき姿を知り、どのように生きるべきかを学び、日々の生活の中で実践して行く事が大切です。このブログを通して一人でも多くの方が学んで下されば幸いです。

真のお父様のみことば

「天の心情を誰が知っていたか」
1960年1月17日

 天は四千年間苦労された神様の事情を知らせるために、事情を語りながら手に手を取って「お父様!」、「私の息子、娘よ!」と言うことができる一日を見るためにイエス様を送られましたが、送ったことが恨となったまま、キリスト教二千年の歴史をつづってきました。

 今日、堕落した人間たちの中において善を見つめ良心が指向する方向に従っていこうとする人々は、「神様がいらっしゃるならば、神様、あなたの事情を知ることができますように」と求めなければなりません。先祖たちが孤独な道を行き、死の道を行き、血を流す道をいとわず行ったのはどうしてでしょうか。神様の事情が恋しかったからなのです。

 神様の事情を知ったならば、次には何をすべきでしょうか。神様の心情を知らなければならないのです。父子の心情を知らなければならないのです。それを知ってこそ、神様が私の父であり、私は父の息子、娘となることができます。天地が崩れるというようなことがあったとしても、これだけは変わらないのです。これが解決されてこそ初めて、願われたその基準が立てられるのです。その瞬間に天地は、逆転していたのが正常に回転することができるようになるというのです。そのようになり得る時が、終わりの日です。

 このように、何も知らない人類と先祖たちを指導してこられたことが、神様の悲しみです。神様は、そのことが分かる人が出てくることを待っていらっしゃったのです。そうしてイエス様が、それを知り、それを知らせるために来られました。来られて新しい宣布をなさらなければなりませんでした。何を宣布されるのでしょうか。天国建設の青写真を宣布なさったことでしょう。人間が失ったエデンの園をサタンが所有しているので、そのサタンを打ちのめし新しい本然の園を建設することができる、という内容を宣布なさったことでしょう。その宣布文が聖書には出ていません。みな消してしまいました。それゆえ二千年の歴史路程は、彷徨の歴史であったのです。

 これから私たちは、神様の事情を知らなければなりません。その事情を知って何をしなければならないでしょうか。神様の心情を知らなければなりません。神様の心情を知って、「私の父である」と言わなければなりません。

 六千年間、人類が探してきたのは、聖書に流れている神様の事情を知り、神様の心情を知るためでした。民族や国家は言うまでもなく、個々人に対して父母の心情をもって接し、傷ついて蹂躙され、排斥され、刺されながら来られた神様が、私の父であることを知るためです。


 イエス様は祈祷されました。ゴルゴタに上がる前に、既に倒れることを御存じであり、ゲッセマネの園で夜を明かして祈祷されました。「わが父よ、もしできることでしたらどうか、この杯をわたしから過ぎ去らせてください。しかし、わたしの思いのままではなく、みこころのままになさって下さい」(マタイ二六・三九)と祈られました。

これは「あなたが私を送られたのは、父の基準を立てるためであり、私がこの地に生まれたのは、息子の基準を立てるためです。父を証すべき立場でありながら、このように途中で倒れるわけにはいきません」という心だったのです。これがイエス様の心情であることを知らなければなりません。

 天地が崩れることがあったとしても、父が送ってくださったイエス様であり、息子の基準を立てなければならないイエス様であったがゆえに、天に向かって、父に向かって、そのみ旨に背を向けるようなことはできなかったのです。