敢えて2006年のダイアモンドユカイを振り返る。 | LONELY JACK KNIFE

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デビューから丁度20年という節目だったダイアモンドユカイの2006年を振り返ると面白い。


というか色々なことがこの翌年からありすぎた(笑)


ユカイは自らの半生をジェットコースターみたいな人生という比喩するが、本当にそのまま当てはまる。まさに嵐の前の静けさというような年といっていい。


まず、土肥さんをはじめとしたパーマネントなバックバンド、キッズアゴールデントランプが結成されて、かなりアクティブにライヴをやった。東名阪ツアーもあった。


ゴールドやジュリエットはこの前年からライヴで新曲と言って演奏されていて、続くように、JET、幸せの法則、などが披露されていった。


俺の名はDYに関してはライヴSEに使われ、この曲はなんだと、ファンはざわついていた(笑)


といっても、リップスティックはもっと前から演奏はされていた。というかマジマシュの曲であった。


なので自然と07年リリースのアルバム、DYショートバイブルへの布石は出来ていた。



また、ライヴに関しては、アコースティックのライヴイベントで、ハリーと名を連ねたり、GDフリッカーズのライヴにゲスト出演したり、森重と戸城のバンド、ダスボンやパーソンズと対バンをしたりなど、同世代のミュージシャンとの絡みも多かった。


音楽活動以外では、今の奥さんと交際していたとはいえ、独身であったし、アメブロもやってなかった。


さんま御殿を皮切りとした爆発的なテレビ露出は翌年の07年なので、ここまではお茶の間的にはまるっきり無名なミュージシャンだったともいえる。


よって、「ハローサムシング!」などとは言わなかったし(笑)、告知関係は、「ダイアモンドハイフンユカイドットコムを見てくれ」と言っていた。

情報の発信源はそのオフィシャルサイトが主だった。


また、愉快会というファンクラブが作られ、会員向けのサイトもスタートした。


10月にはエッグマンにおいて過去と現在、そして未来を繋ぐというコンセプトの3DAYSライヴを敢行。その中日はレッドウォーリアーズのナンバーのみという構成のライヴだったが、そもそもは、この時にレッドウォーリアーズで何かやれたらという画策があったようだ。


それに伴い、レッドのボックスセット(lesson21ボックス)の企画も進行していたらしい。


結果的には、レッドの再始動もボックスセットリリースも翌年に持ち越されるが(笑)


と、こんな感じで(笑)  とにかくこの年は、様々な形態であれ、ライヴステージの数はかなりのものだったし、ユカイの視線はファンだけに向けられていたように思えてならない。